こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

アンディジャン事件

さて、このツーリスティックではまったくない国境の街アンディジャンを世界的に有名にしたのは2005年5月13日の事件である。アムネスティの報告によると、経緯は以下のとおりだ。

遡ること1年前の2004年に23人の実業家がイスラム過激主義に関与したかどで逮捕、収監された。公判は2005年5月11日に結審し、判決が言い渡される予定であった。不当逮捕、拷問、不公正な裁判に抗議する人々が集会を行っていた。それ自体は平和的な抗議活動だったようだが、5月12日から13日にかけて武装勢力による市庁舎、刑務所、軍の建物に対する襲撃が発生した。武器やトラックが盗まれ、囚人約500人が逃亡した。13日早朝に人々は市庁舎前広場に集まり、大規模なデモを形成した。治安部隊がすぐさま派遣された。この治安部隊の行動が常軌を逸していた。なんと非武装の群衆に対して無差別な発砲を始め、逃げ惑う人々に対しても容赦なく弾丸の雨を浴びせた。死者は数百人から数千人に達するとみられるが、正確な数は不明である。また多くの市民が隣国キルギスに流れ込み難民となった。これがアンディジャン事件の概要である。

厚いベールに覆われているため事件の真相はよく分からない。カリモフ大統領(当時)の言い分によると、この事件は、イスラム過激主義のテロリストが企てたものであり、治安部隊はテロリストを鎮圧しこそしたが、一般市民には発砲していないと主張する。確かに、軍や刑務所に対する洗練された襲撃は訓練された人間による計画的な犯行であろう。しかしなぜカリモフがこれほどまでに過剰な、そして無差別ともいえる弾圧的な措置を取ったかは、それだけでは説明がつかない。

実は、カリモフ大統領とフェルガナ盆地との因縁は、ウズベキスタンソ連から独立する1990年頃まで遡る。カリモフがウズベキスタンの第一書記に任命された1989年、若きカリモフを動揺させる事件が発生している。それがメスヘティア・トルコ人虐殺事件だ。メスヘティア・トルコ人とは、スターリンの時代にグルジアの山間部から強制移住させられた人々のことで、フェルガナ盆地には約10万人住んでいた。共存していたはずのウズベク人とメスヘティア・トルコ人であるが、旧ソ連末期に両民族間の衝突が発生し、100人以上のメスヘティ・トルコ人ウズベク人により殺害される事態となった。この民族衝突のさなかに共和国のトップに推挙されたのがカリモフだった。カリモフはこの地に治安部隊を派遣しなんとか事態を収束させた。この一件はカリモフに強い教訓を残すことになった。フェルガナ盆地にくすぶる不満・対立の根深さと、迅速かつ徹底した軍事鎮圧の必要性である。手遅れになっては絶対にならないのである。

そして翌年の1990年には、隣国キルギスのオシュ・ウズギョンでウズベク人虐殺が発生した。フェルガナ盆地に住むウズベク人が軍事支援のためキルギスに越境(当時キルギスウズベクソ連内の共和国)しようとしたが、カリモフはそれを阻止している。独裁者としては少し意外な対応に見えるかもしれない。だがここ中央アジアにおいて隣国に口出しするのはご法度なのだ。人々が民族単位で行動するようになるとどうなる?ウズベクに住むタジク人、タジク内キルギス人、カザフ内ロシア人が独立を主張し始めると収拾が付かなくなる。安易に同民族の連携や保護を唱えることは絶対にしてはならないとこの地の指導者たちは骨身に染みているのだ。だから20年後の2010年、オシュ暴動でウズベク人が虐殺されキルギス暫定政権から援軍を要請された際もカリモフは軍を派遣しなかった。一見、人道的配慮に欠いた行動に見えるが、この地のルールを守ったのである。なお後日、キルギス暫定政権はカリモフのこの慎重な対応に謝意を表している。

さて話をアンディジャンに戻す。ソ連からの独立後フェルガナ盆地ではイスラム復興主義が芽生えるようになった。カリモフが首都タシュケントの爆弾テロに手を焼いていたのは2000年前後のことである。しかしアンディジャンで時の政権に住民が抵抗するのはこれが初めてではない。ロシア帝政下の1898年にもイスラム指導者による武装蜂起が発生している。もともと敬虔な人々が多く、支配者に屈することを拒否する土壌があるのだろう。

フェルガナ盆地をカリモフは掌握できていなかった。地域閥が力を付けるのを恐れて経済活動を制限した。そうなれば市民生活は困窮し、政府に対する不満も高まる。そしてますます地域の有力者の発言力は増していく。明らかな悪循環である。カリモフの目には、実業家であれイスラム教の指導者であれ、こうしたグループが脅威に映っていた。

刑務所が襲撃された時点でカリモフの腹は固まっていたと思われる。速やかに鎮圧すること、他都市に波及させないこと、手遅れにならないこと。そして重要なのは、今回の事態を収拾するだけでなく、同様なことが二度と起こらないくらいの恐怖を人々に植え付けること。これらを確実に遂行せねばならないと決意していたのであろう。

以上は完全な推論に過ぎないがこういう筋書きなら一応辻褄は合うかもしれない。カリモフ亡き後、歴史の検証作業が始まることを期待したい。いずれにせよアンディジャンは100年の時を隔てて二度悲劇の地となった。アンディジャンの人々の優しさを考えると、良き人たちの住む町でなぜこんな酷い事件が発生したのかと思う気持ちが湧き上がる。ただ義に厚い人々だからこそ不条理が許せないのだろうし、その曲がらない実直さを支配者が恐れるのもまた真実である。

コーカンドもアンディジャンも再開発が積極的に進められていたように見られた。事件の反省を踏まえて、経済支援策が取られたのかもしれない。そうであれば、夥しい犠牲も無駄ではなかったと言える日が来ると信じたい。

しかしフェルガナ盆地への経済的配慮として事件後にカリモフが実施した、この地への電力供給の優先と、それに伴うキルギスへの送電停止の結果、キルギスにおける電気料金の急激な値上げに直結し、やがて2010年のキルギス政変そしてキルギス南部のウズベク人虐殺へのトリガーを引くことになったのは何とも皮肉なことである。まさかカリモフは、自分の選択がウズベク人をキルギスから追い出す事態を招くことになろうとは夢にも思わなかっただろう。