こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア35 ジャララバード キルギス

ウズギョンに続いて、2010年の衝突でもっとも被害の大きかったジャララバード、バキエフの故郷に向かった。

ジャララバードはオシュやウズギョンと比べて、よりソ連的な町である。町の規模と不釣り合いに広く直線的な道路はビシュケクを思い出させる。しかし計画都市の範囲は限定的で、少し歩くと南部キルギスらしい町並みに戻る。

そこで目にしたのは、ある通りの家々が軒並み破壊された跡だった。意図的かつ徹底的な襲撃が行われたのだろう。そして、大学はさらに無残な姿を晒していた。窓と言う窓は一枚残らず割られ、建物を囲んでいたフェンスは破壊と略奪を受けて支柱のみが寂しく立っていたのだ。正面扉だけは頑丈だったのか、グンニャリ曲がったまま辛うじてその場で踏みとどまっていた。衝突の傷跡の大きさを物語って余りある光景だった。

 

2010年の民族衝突の経緯は複雑である。北部と南部の対立、キルギス人とウズベク人の対立が根底にある。

5年遡って2005年のチューリップ革命の流れを振り返ってみる。この革命のきっかけは、同年初めに行われた国会議員選挙だった。南部を基盤としていた野党はウズギョン選挙区、ジャララバード選挙区で勝利を逃し、アカエフ派与党に議席を明け渡す。特にジャララバードでは、バキエフがまさかの敗北を喫した。ウズギョン、ジャララバードといった南部の町で北部アカエフ派が当選することはあり得ない。そうした疑念がくすぶる中、買収や票の操作が行われた証拠が次々と明るみに出ると、市民による抗議活動は一気に燃え広がった。ジャララバードに人々は集まり、選挙の無効性とやり直しを訴えたのである。この集会はやがて全国に飛び火し、南部の人々は首都ビシュケクを目指した。こうして集結した数万人の群衆を前に、アカエフ政権はあっけなく崩壊したのである。このように、チューリップ革命は北部と南部の権力闘争が如実に顕在化したものと言える。

 

この頃のウズベク人の振る舞いには、少々理解しがたいものがある。まず、ジャララバードでバキエフ対立候補となりバキエフを落選させたのはウズベク人活動家である。しかし一方で、ウズベク人の一部は南部出身の大統領を歓迎し、バキエフを支援している。この一見相反する動きは、ウズベク人の声を国政に反映させるためには手段を選ばない実利主義によるもの、というのが一つの仮説になるかもしれない。そしてバキエフを支援した理由かどうかは分からないが、ウズベク人は勢いに乗じてウズベク語をキルギスの国家語として承認するよう国会に働きかけている。ただ、ちょっと待ってほしい。当時のキルギス憲法には、これを到底認めえない文言が入っているからだ。1993年に制定された憲法前文には以下のようにある。

「我々キルギス国民は、キルギス人国家の復興を熱望し、この憲法を採択する。」

つまり、キルギスキルギス民族の国だと言っている訳で、ウズベク語が国家語となりうる余地はない。ちなみに、このような、アーネストゲルナーが言うところの民族と国家を一致させるナショナリズム憲法に明記されているのは、実は中央アジアでもキルギス一国だけである。当然ながらこの申し出は却下された。ナショナリズムが正義とされる国で、こうしてキルギス人とウズベク人との間に再び大きな軋みが生まれ始めたのである。