こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア36 2010年キルギス南部騒乱

バキエフ政権下の5年間はどういったものだったのだろうか。アフガン関連の麻薬ビジネスを取り仕切り、息子がマネーロンダリングに関与するなど、決して清廉潔白と呼べるものではなかったようだ。発展途上国のリーダーがこうした裏ビジネスに手を染めている場合、例外なく市民生活は貧しくなる。良き為政者になるための努力よりも、権力のピラミッドを登るための努力を、権力を手にしてなお優先するからだ。ピラミッドを登るのが得意な人間は、古今東西えてして声が大きく、排斥的で、倫理的妥当性に無関心で、白を黒と言いくるめてしまう性質を持っている。そして不幸なことに、リーダーの選出はリーダーとしての資質の審査によってではなく、ピラミッドを登ることに長けているかどうかで決まる。

 

情勢が流動化し貧しくなった南部について、バキエフは残念ながら民族の調和的発展を図るという発想は持っていなかったようだ。むしろ、どうにかしてウズベク人勢力を排除したいと考えていた。そんな折に権力の座を追い出されたのである。

さて、201047日の政変でビシュケクを脱出したバキエフは、一旦故郷ジャララバードに戻っている。ここでバキエフは、暫定政権に一矢報いるための案を練っていた。そして亡命した後の6月、ロシアや中国を含む国際会議の最中に事件は発生した。オシュでのいざこざを契機に発生した小競り合いは瞬く間に大規模な衝突へと変容した。それは大規模な喧嘩という生易しいものではなかった。ウズベク人は残忍に殺害され、住居は徹底して破壊された。ウズベク人居住区では、住民がバリケードを設けSOSと地面に書いて身を守ろうとしたが、容赦なく襲撃された。公式記録によると1500以上の家屋が燃やされたという。キルギス人、ウズベク人のどちらから先に手を出したのかは議論の分かれるところであるが、被害が大きかったのは間違いなくウズベク人である。

この騒乱には、バキエフの息のかかったキルギスの治安部隊だけでなく、アフガニスタンのテロリストも関与した。この用意周到な破壊工作に対して、ウズベク人勢力はもとより、暫定政権も「山の向こう側の出来事」になす術がなかったのである。

暫定政権の役立たずぶりを証明し、ウズベク人を完膚なきまで叩きのめすというバキエフの目的は疑いなく達成された。

 

一方の民族によるもう一方への民族に対する虐殺が計画的なもので、かつ無差別であればそれは民族浄化の様相を呈している。実際、この衝突後多くのウズベク人は国を離れたという。残ったウズベク人たちも、しばらくは息を潜めて暮らすことになるだろう。

国外へ逃れたウズベク人は、また別の問題を抱えている。感受性の高い時期に祖国を離れた若いウズベク人の一部は過激主義者の餌食となりやすい。慣れない国での貧しい暮らしを強いられ、世の中は正義でないという思いが強ければ、容易に過激思想に引き込まれるからである。こうして発生したのが、2017年のサンクトペテルブルクでの地下鉄テロだ。いつか彼らが結束してキルギス人に対して報復を企てる可能性もゼロとは言い切れないだろう。

一方で、平和的なプロセスによる「民族共生」として、自治権の獲得があるかもしれない。さらに進めば独立を問う住民投票も考えられるが、これはあまりにリスクが高すぎる。ただ、政治活動の自由が比較的許容されているキルギスでは様々なパターンがあり得るだろう。

なお、2010年の暫定政権による憲法改正で、「キルギス人国家の復興を熱望し、」のくだりは削除された。だが、人の意識がそう簡単に変わる訳ではない。そこも踏まえて、ウズベク人が心の内にどういう思いを秘め、どのように行動するのか十分注視する必要があるだろう。

(参考図書:浜野道博著 検証 キルギス政変 )