こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア45 ワハーン回廊とは何か?

f:id:stertwist:20211212222836p:plain

https://cdn.britannica.com/41/5341-050-0FDFBFFD/Afghanistan.jpg

f:id:stertwist:20211207204118j:plain

f:id:stertwist:20211207204130j:plain

f:id:stertwist:20211207204140j:plain

f:id:stertwist:20211207204152j:plain

f:id:stertwist:20211207204201j:plain

f:id:stertwist:20211207204212j:plain

f:id:stertwist:20211207204222j:plain

f:id:stertwist:20211207204231j:plain

f:id:stertwist:20211207204244j:plain

f:id:stertwist:20211207204255j:plain

f:id:stertwist:20211207204307j:plain

f:id:stertwist:20211207204317j:plain

朝食を食べてすぐ我々は出発した。ランガルから西へ10分ほど走ったところに良い展望台があるということで、車を降りて歩くことにした。麦畑を抜けて丘を登っていくが、なかなかの急坂で息が切れる。だが風景は色彩豊かで飽きることはない。道中、大きな藁の束を抱えた子供や農作業に勤しむ婦人たちとすれ違う。足音に気付いて振り返ると、飼い主のおじいさんからはぐれたロバが人懐っこく後を付いてくる。道端には若紫のトラノオや朱い実を付けた高山植物が色を添えていた。眼下にはきれいに手入れされ整然と区画された畑が、緑と黄色の鮮やかなコントラストを成している。この辺境にこれほど豊饒な桃源郷が広がっていることを誰が想像できるだろうか?

なんとか標高差300メートルを登り城砦跡に辿り着いた。この展望台から眺める対岸ヒンドゥクシュ山脈の光景は、造山運動が如何にこの地形を作り出したかを考えさせてくれる。まるで地面から突き抜けて出てきたような山々。人が立ち入ることを拒む無機質な岩肌。谷底とピークの標高差は4000メートルに達する。巨大な山と山の隙間から灰色の砂が谷に吐き出され、見事なまでに正確な砂の扇を描く。大きな扇は半径2kmにもなり、そこで川は押されてぐっと細くなる。そして狭窄部を通過すると川はまた四方に拡がりたくさんの中州を形成する。この繰り返しが、変化に富んだ景観を生み出す。まるでスケールの大きなジオラマを俯瞰しているようである。

対岸はアフガニスタン領だが、山を越えるとパキスタンに入る。つまり今いる場所から見えている山の北壁「だけ」がアフガニスタンなのだ。この極めて奇妙な国境線の成り立ちはグレートゲームそのものと言ってよい。

ワハーン回廊について説明する。

地図を眺めると、アフガニスタン東部に盲腸のように細長く伸びる部分があることに気付く。それがここワハーン回廊だ。地図上での幅は20㎞ほどあることになっているが、実際の印象はそれよりずっと細く感じる。この不自然な領土分割は大国の妥協の産物である。1893年、ワハーン川上流300㎞に緩衝地帯を設けることで北側のロシアと南側の英領インド(現パキスタン)が直接相対することが回避されるというアイデアのもと、アフガニスタンの領土を中国国境までニューッと引っ張ることとなった。その結果が今見ているいびつなアフガニスタン側ワハーンなのだ。

さてこの地域の住民は一説によると、アレクサンダー大王の末裔だという。時折見かける青い目の村人がそうなのだろうか。他方、対岸アフガン側にはキルギス人が住むといわれ、ワハーン回廊自体が民族的に特異な場所でもある。宗教的にはイスマイール派と呼ばれるイスラム教の中でもかなり世俗的なムスリムが住み、これは対岸のアフガニスタンも同じである。タリバーンが最も隆盛を極めた2000年前後でもそれは変わらなかったという。

このように良きにつけ悪しきにつけ手つかずのワハーン回廊だが、中国の一帯一路政策の要であることには違いない。100年前には大国の間に挟むための緩衝地帯に過ぎなかったこの地が、結果として中国とアフガンを繋げることになり、やがて中国シルクロードに化けていく。今後そう遠くない日にこうした変化を目の当たりにすることになるだろう。喧騒から奇跡的に免れ、世界で最も辺境な場所の一つであった時代にここを訪れることができたことは幸運だったと思う。