こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア30 ビシュケクからオシュへ

2011年727

スントの腕時計の控え目な目覚まし音で目を覚ました時、周りは完全に寝静まっていた。時刻は朝6時。空が白み始めているとはいえ、朝が遅いビシュケクの宿は物音ひとつせず、深夜のようである。音を立てないよう注意深く着替えを済ませ、部屋の外に出てからバックパックに荷物を詰めた。空気の肌寒さが身にしみる。まだ人通りが少ない街を歩き、マルシュルートカに乗りオシュバザールまで出た。

 

今日の目的地はキルギス南部のオシュだ。距離は約600km。平均時速50キロとして、12時間ほどの道程になるだろう。オシュ行きの車は、バザールの裏手南西から出発する。定員の客が集まり次第の出発だから車は選べない。車の順番は、ドライバー間の固い協定があるから動かせない。僕が乗ることになったのはホンダのミニワゴン。言い値は1000ソム、つまり2000円弱。だがドライバーと値段交渉を始めると、他のドライバー達がわさわさ集まって来て、早く乗れと急き立ててきた。セダンで1200キルギスソム、ワゴンで1000ソムが相場で、それ以上は下がらないというみんなの言葉を信じ乗ることにした。客を7人集めて740分に出発した。

車はビシュケクを西に走る。少し街を離れると建物の姿はまばらになり、左手には朝日によって無数の襞が刻まれた青い山並みが見えるようになる。しばらく走るとやがて車は方向を南に変える。そしてどこまでも真っ直ぐな道を山に向かって進む。周りにはぽつりぽつりと木が生えているが、大方が草原で見通しがとても良い。空は雲一つない晴天で、わずかに水蒸気を含んだ薄い水色が初夏の陽気を感じさせる。みるみるうちに山の壁は迫ってくる。遠くから眺めると青かった山の斜面は、近づいてみると緑の絨毯に姿を変える。さらに車はグングン高度を上げ、それとともに緑が途切れ、岩肌がところどころむき出しになってくる。やがて緑は姿を消し、周りを岩山に囲まれたところでトンネルが現れた。ここまで出発から2時間だ。

 

トンネルの名はコルバエフという。この標高約2000メートルにあるトンネルは、比喩としてのトンネルそのままのものである。内部は狭くて暗い。照明は、天井に50m間隔で付けられたオレンジ色の灯だけが頼りだ。センターラインは引かれておらず、かつ外側は壁との間にあそびのスペースがない。だからトラックとすれ違う時はかなりギリギリだ。風の陰圧で対向車線側に車がふうっと吸い込まれ、あわや接触しそうなほどに近接する。どちらの車も決して減速しないので、助手席に座っていると神経を磨り減らす。そしてトンネル内の空気は白く濁っている。信じがたいことに、3km近いこのトンネルに換気装置は一つも設置されていないのだ。もし何かあったら大丈夫なのか?いや大丈夫ではない。実際、過去にこのトンネルでは、渋滞により発生した一酸化炭素中毒で4人死亡した例がある。だから、もしもの時にどちら方面へ逃げるかを真面目に考えていた。一酸化炭素の分子量は12+16=28。空気の分子量は窒素80%と酸素20%から成り、28×80%+32×20%=28.8。つまり一酸化炭素の方が空気よりわずかに軽く、上へと流れるはずである。ここでトンネルの勾配がどうなっているかだが、オシュ側出口はビシュケク側出口より50m高く2%の上りになっている。ということはビシュケク方向へ逃げるのがベターとなる。だがこんな理屈をいくら考えても、いざという時には役立たない。

さて、幸い何事もなくトンネルを通過した。暗いところに慣れた目に、南から射す太陽の光が眩しく感じられた。

長いトンネルを抜けるとそこは大草原の地だった。車内に感嘆の声が上がった。遥か眼下には見渡す限り一面の緑が広がる。緑はやがて山の斜面を駆け上がり、遠い彼方で白い雪を被った山並みへと続く。真っ黒に日焼けした精悍な顔つきの遊牧民たちが、背筋をピンと伸ばして馬に跨り堂々と闊歩していた。僕は、違う国に来たのだと思った。トンネルを抜けるとそこは、という表現はここのためにあると言って過言ではないだろう。暗い隧道で生じた恐怖や陰鬱を一瞬にして解放させるだけの力がこの雄大な風景にはあった。僕はただ圧倒された。

山肌にシュプールを描きながら車は徐々に草原へと下っていく。やがてユルトと呼ばれるテントがぱらぱらと現れるようになり、馬乳酒を売る露店で車は止まった。僕は、ゴルフボール大のチーズを5個ほど買った。一つ1ソム=2円。酸っぱくておいしい。軟らかくてぽろぽろ崩れるので、一気に全部食べた。

しばらく草原の中を車は走る。この辺りに家屋はなくユルトが住居の基本スタイルである。きれいに毛並みが手入れされた馬たちが道を占拠し、中には白馬も混じる。キルギス人にとっての生活は遊牧であり、その精神は今なお引き継がれていると感じる。

その後川沿いの道を上がっていく。峠が近くなると空が青くなる。峠を越えたところで昼食休憩を取った。せっかく近くを清流が流れているので川魚をと思ったが、今日はないそうなのでマトンの煮込みを食べた。マトンといっても臭みはない。パンと食べるととても美味しい。合わせて200ソムくらいだったと思うが、ドライバーがおごってくれたのでいくらかは分からない。やっぱり遊牧民はもてなしの心で溢れていると思う。僕はセメイの家族を思い出していた。自分も同じことを出来るようになるだろうか?

小一時間休憩して12時半に再び車は出発した。風景はまたがらりと変わる。草原は消えユルトと遊牧民は見なくなる。代わりに乾いた山とポプラの木が主人公だ。そして坂を下る途中、遠くに四方を無機質な山に囲まれた湖が見えてきた。付いたり離れたりを繰り返しながら、車はしばらくこの横長い湖を巻くように走る。色が変化していく不思議な湖だった。遠目には何の変哲もない青色だが、近づくと乳白色のターコイズブルーを呈している。かと思うと青は次第に濃くなり空と同じ色になる。菜の花畑の向こうに湖、その向こうに石灰岩でできた山があるのだが、その白い山がまるで空と空に挟まれた蜃気楼のように映る。しかしまた湖が太いところに来るとターコイズブルーに戻り、やがては吸い込まれそうなほどに澄んだ湖面となり遠く静かに広がる。

 

湖を離れるともう緑はない。奇岩がそそり立つ峡谷に沿って道が続く。外の空気がやたらと暑い。僕は少しうたた寝をした。しばらくして目を覚ましても同じような風景だった。赤茶けた大地、砂漠、土漠、そして盆地に現れる町と緑。寝汗をかいていたが、空気が乾燥しているので窓を開けて風に当たればすぐ乾く。車窓の風景が単調になるにつれ、早く着かないかばかり考えるようになっていた。それはドライバーも同じで、明らかにスピードを上げ、遅い車に対して追い越しをかけるようになってきた。しかしこの車はホンダの輸入車だから右ハンドルなのである。右車線を右ハンドルで走る訳だから、前の車に視界が遮られて対向車が見えない。追い越しをするにはあまりにも不利だった。猛スピードの車がすぐそこまで近づいて来ようかというところでセンターラインを割って左に出てこようとするので、僕が慌てて制止する。危なっかしいたらありゃしない。そこで僕が代わりに追い越しの指示を出すことにした。対向車との距離を測り、抜けると判断すれば合図を出す。時速90kmで走るとすれば、車同士の距離は1秒で50m縮まる。6秒で追い越すためには最低300m必要だ。だがこの距離感がなかなかつかめない。購入してたった4日の車にドライバーも慣れておらず、もたもたしているうちにあわや正面衝突の場面が何度かあった。おかげでドライブの後半は、一瞬たりとも気を抜けない羽目になった。

この辺りはフェルガナ盆地と言う。キルギス人とウズベキスタン人が混在し、国境線が複雑に入り組んだ場所だ。ソ連の時代には国内移動だから何も問題がなかった。しかしそれぞれが独立すると、国境線をまたぐ道は厄介なものになる。オシュまでの道路は東に突き出したウズベキスタンを通過するので、回避するためしかたなく大きく遠回りをする。それでもまた更に小さく突き出したウズベキスタンにぶつかるので、そこでまたちょっと迂回する。

こうして日が傾き始めた頃、鉄骨が剥き出しになった大きなアーチをくぐり、検問を通過しオシュに到着した。時刻は1840分。ちょうど11時間だった。街はまだ暑く埃っぽかった。