こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

タイ4 カオプラビハーン

2011年4月4日

日の出を見た後ナンロンへ戻り、荷物をまとめて東のウボンラチャタニにバスで向かった。所要時間5時間の予定だが、普通バスは地元民が乗降するため停車が多く、想定よりも時間がかかる。これを僕はうっかり失念していた。ウボンラチャタニ到着予定時刻の頃、たくさんの人がバスを降りて行くので、僕も一緒に降りることにした。念のため乗客の1人に「ウボン?」と尋ねると、彼女はこくりと頷いた。だから僕は間違いないと思った。下車した乗客たちは、待機していたソンテウに一斉に乗り込む。きっとこれがウボンの街に出るソンテウだと思い込んだ僕は、取り残されないように一緒に乗り込んだ。ここがどこかはよく分からないが、街の中心で降りればそこから先は自力で何とかなるだろう。地図を眺めながら時折周囲に目をやり、街の中心というものが現れるのを待っていた。すると、出発して10分ほど経った頃だろうか、突然乗客の一人が僕の腕を掴み、降りるように指示した。そして後ろを指差し「ウボンはあっちだ」と言ったのである。僕は訳が分からなかった。ウボンに来たのにウボンでないと言うのである。ただその口調がかなり強かったので、言われた通りソンテウを降り、反対方向に歩くことにした。すると道路標識に、「ウボンは左折」と出ているのを見つけた。やはりここはウボンではないのか。次々現れる標識に従い歩き続けたところ、ロータリーで今度は本当のウボン行きのバスを見つけた。そこで僕は、この町の本当の名前を知ることになった。実は、ここは「ウボン」ではなく、50㎞離れた「ウドム」だったのである。ああなんと紛らわしい。

そんなこんなでウボンラチャタニ到着は19時となった。日は既に沈んでいたが、まだ熱気は残る。暑期の夜は、夕涼みというには暑すぎる。汗をかき旧市街の宿を何軒か見て回り、パデーンマンションという新しい宿に落ち着いた。ここはとても清潔で、床が鏡のように反射していた。変わったことに、部屋と廊下に名画のレプリカが飾られている。またタイ特有のマンションスタイルで、トイレ、シャワーなどの水回りを外側に配置し、部屋には窓がない。だが浴室でない方の外側はベランダになっていて、水道とシンクが設置されているし、洗濯物を干すことも可能だ。窓はなくてもいつでもベランダに出られるので、圧迫感はあまり感じなかった。そしてよく眠れる快適で清潔なベッドだった。

4月5日

翌朝、小鳥のさえずりと飛行機のエンジン音で7時に目覚めた。ベランダに出ると飛行機がすぐ上空を飛んでいる。実は、宿から空港まで500mほどしか離れていないのだ。だから特に離陸の時は、部屋にいても轟音がよく聞こえてくる。一方でバスターミナルは5km北に離れた新市街にあり、空港よりもバスターミナルの方が郊外にあるという珍しい街である。

さて、最後の使命をいよいよ果たす時がやってきた。タイ側からのプレアビヒア参拝である。なお、タイではクメール語プレアビヒアではなく、タイ語でカオプラビハーンと呼ぶ。どちらも聖なる寺院という意味だ。
カオプラビハーンへは、カンタララックの町を経由してダンレック山脈を上がっていく。ひとまずウボンから、老朽化してアンティークのようになったボロボロのバスに乗り、カンタララックへと移動した。乗降客のための停車が頻繁で、あまり離れていないカンタララックまで2時間以上かかった。
カンタララックから先、寺院まで直行する公共交通機関はない。そこで中間地点のプムサロンの村までソンテウで行くことにした。だがバス停でソンテウについて尋ねると、「カオプラビハーンへは行けないよ」と言う。そしてソンテウに乗り込むと、今度は乗客とドライバーに「カオプラビハーンには行けないから乗るな」と言われた。プムサロンへのソンテウは今出発するのが最終便だから、乗ってしまうとカンタララックに戻れなくなるというのだ。
僕は正直悩んだ。ここまでみんなが行けないというのだから、行けないのは確実なのだろう。だが行けないなら行けないで、どういう風に行けないかをこの目で確かめたい。遺跡内部に一度入っている僕にとっては、遠くから眺めるだけでも十分なのだ。僕はみんなの反対を押し切り、ソンテウに乗ることにした。
プムサロンへは40分で着いた。とても小さな集落だった。バイクタクシーがいそうな雰囲気はない。やむなく歩いてカオプラビハーンを目指すことにした。寺院までの距離は11㎞、すなわちカンボジアの岬まで11kmだ。ここからカオプラビハーン方面は、非常に緩やかな登りが続く。カンボジア側と対照的になだらかで、この先、断崖絶壁が待ち構えていることなど誰が想像できようか?
1kmほど歩いたところで軍のチェックポストがあった。厳重な車止めが設置され、兵士が7人ほど詰めている。彼らにカオプラビハーンに行きたいと伝えると、若い兵士の一人が笑いながら「ここから先へは行けないよ」と言った。旅行者が珍しかったのか、とにかく彼らは笑っていた。戦闘は小康状態になっているとカンボジア側で聞いていたので、ダメ元で写真を撮るだけだから行かせてくださいと伝えたが、「ノー、ノー、ノー、ノー」と強く拒絶した。どうやらここから先には進めなさそうである。つまりタイは、カオプラビハーンの10㎞手前で立ち入り禁止にしていたのだ。
プムサロンまで戻るとソンテウはもういなかった。ヒッチハイクしようにも交通量自体が非常に少ない。仕方なくカンタララクまでの27㎞を歩いて下ることにした。時速5㎞で歩けば5時間半、めまいを起こしそうな距離だが他に方法はない。心を無にしてひたすら歩いていた。その間も、軍車両だけはひっきりなしに通過する。たくさんの兵站を積載した大型車両。簡素な装備のカンボジア軍とのギャップを見せつけられた気分だった。
さて1時間ほど歩いたところで、後ろからやってきた荷台付きのハイラックスが僕の隣に横付けした。車は50歳くらいの軍人が運転していた。彼は、僕に向かって助手席に乗るよう促し、僕は厚意に甘えることにした。こちらはタイ語が全くわからず、向こうは少ししか英語が通じないのでコミュニケーションを取るのは少々骨が折れた。どうやらこの男性はチェックポストにいた人たちの上司のようだった。僕がカオプラビハーンに行きたかった、と言うと彼は大きく頷いてメモ帳を渡してきた。そしてホテルの名前と電話番号を書くよう告げた。身振り手振りから解釈するに、明日カオプラビハーンまで連れて行ってやると言っているようだ。そうすれば、タイ側からのカオプラビハーンを見ることが出来る。ただ僕は考えた。僕はカンボジア側からプレアビヒアに行った人間だ。タイの軍人にエスコートされて国境をうろつく僕を見たら、カンボジアの人はどう思うだろうか?10日前にタイ軍がクラスター爆弾を使用したことをなじるカンボジア人に同意しておきながら、今度はカンボジア軍の悪口を一緒になって言うのだろうか。無償で特別な優遇を受けたなら、今後言いたいことも言えなくなるだろう。それなら高いお金を払って、許可証をもらう方がまだマシだ。そして現実問題として、カンタララクに泊まっていないし、電話も持っていない。ありがたい申し出ではあったが、頭を下げてお断りした。
カオプラビハーン寺院の10㎞手前の地点で立ち入り禁止。それが2011年4月の状態だったのだ。

ところでタイの新聞を見ていると、日本とかなり論調が違うことに驚いた。反タクシン派のアピシット首相はかなりの強硬派という認識だったが、タイ国内では逆風が吹いていた。カンボジア軍の攻撃を受けて多くの犠牲者が発生しているのに、彼は手を拱いて言い訳ばかりしていると批判が集中していた。アピシット首相はむしろ釈明に追われていた。
プレアビヒア問題は、プレアビヒア周辺の国境未画定地域を巡る紛争であるが、根本にはプレアビヒアの帰属問題についての不満が横たわっていると思う。遡れば1905年の分水嶺を根拠に定められた帰属であるが、そもそも当初の測量は正しいものではなかった。微妙な国民感情を無視して、カンボジアのフンセン首相とさっさと政治的手打ちをしたタクシン首相への反発もあるようだ。
この問題に関して、日本も実は無関係ではない。タイ・仏領インドシナ紛争の仲介は日本によって行われており、この時にタイのプレアビヒアを含むバッタンバン・シェムリアップ州の失地回復が取り決められている。引き続く1941年のタイ進駐の際、タイは日本軍に通行許可を与え、自らも枢軸国として日本を支援することを約束した。この両者はある種のトレードオフだった。しかしシャム王国失地回復は日本撤退後、空手形に転じた。また戦後タイは「不本意に」加えられた枢軸国のリストから外してもらうことに大きな労を割くことになった。「プレアビヒアカンボジア領です」と大きな声では言えない事情がここにある。

その後2011年8月にタクシン氏の妹インラックが首相に就任し、軍を撤退させることに同意。両国間の緊張緩和は急速に進んだ。また同年11月11日、国際司法裁判所プレアビヒアおよび周辺の国境未画定地域についてカンボジア領であることを認定した。