こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

カンボジア17 一ノ瀬泰造の墓

2011年3月29日

1970年代前半、誰も成しえなかったクメールルージュ支配下アンコールワット撮影に挑み、無念にも此の地に散った日本人がいる。一ノ瀬泰造である。
1947年生まれ。戦場カメラマンとして内戦下のカンボジアを舞台に最前線での撮影を続けるが、ロンノル政権によって国外追放処分を受ける。その後、ベトナムからメコン川経由でカンボジア密入国を果たし、再びシェムリアップへ。1973年11月27日に単身アンコールワットに向かい、クメールルージュにとらえられ処刑された。

彼の名前を知ったのは浅野忠信主演の映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」が上映されたころだろう。ただ実はこの映画を僕は見ていない。無謀さ、勇敢さ、行動力、若すぎる死が礼賛されているであろうことが、どうしても受け付けず拒絶していたのである。
だから前回シェムリアップに来た時も一ノ瀬泰造の墓は訪れなかった。巡礼の列からわざと外れたのである。


自分自身の中の保守性と不寛容さについてふと考える。旅にはイデオロギーが付きまとうことをずっと感じて来た。つまり発展途上国への旅が、レールに乗った生活へのアンチテーゼとして機能してきたのではないか。それが一ノ瀬泰造を受け入れることが出来ない原因の一つではあるまいか。
旅で遭遇するインフラストラクチャー脆弱性、法秩序の曖昧さ、プライバシーの欠如。これらは、生きていくための行動力、貧しさに耐える強靭さ、臨機応変に対応する柔軟性、人と人との素朴な繋がりの裏返しであり、日本で失われたものとみなされてきた。一方でそれを冷ややかに眺める側は、日本の今があるのは先人たちのたゆまぬ努力の結晶であり、耕すこともせずに安易に否定ばかりすることを苦々しく感じていた。目に見えない快適さを得るために一体どれほどの犠牲が払われてきたか?彼らは何の代償も払わずに都合よくその恩恵に浴しておきながら、まるで自分たちは、より人間本来の生き方を知っているかのように振る舞うのだ。
このようなムラと若者の半目は、経済成長の勢いが強ければ強いほど顕著なものとなって現れる。そして一ノ瀬泰造はまさしく破天荒のアイコンだった。内戦下のカンボジアで現地の人達と溶け込み、時には密入国やゲリラに捕えられる危険を冒して、命を顧みずに目的に向かって突っ走った。日本にないものを探し求める人たちにとって、これほどまでに理想を体現した人物はいるだろうか?

1999年に「地雷を踏んだらサヨウナラ」が公開され若者の支持を得たことは、まだそういう枠にはまらない生き方に対する憧れが残っていた証拠である。その時、僕は素直に受け入れられなかった。しかしその後、社会を取り巻く環境は変化した。低成長に慣れきった現在、「レールの上の安定した生活」は憧れに変わり、それに伴い逸脱というアンチテーゼの灯は消えたかのように見える。だがそれでも思想の底流は簡単に絶えることはない。これを痛感するのは次のような場面である。

邦人旅行者が事件に巻き込まれる度に、「自己責任」が強く叫ばれる。表面的な理由は血税投入への反対である。では仮に解決に1銭もかからなければ良いのか?例えば誘拐事件が、日本と当該国の外交官が怪しまれずに面談する機会を提供し、身代金以上のメリットがあった場合は反感を和らげるか?答えは否である。即ちこの種の問題は、本質的には掟破りに対する懲罰的感情であり、駆動力はシャーデンフロイデなのだ。ここに僕は、今なお海外渡航に付きまとう無意識の思想対立を嗅ぎ取るのである。

ある種のブームが過ぎた後、一ノ瀬泰造の墓を訪れる人はめっきり少なくなったという。この地がイデオロギーの色分けから自由になれた今だからこそ、墓参しようと思った。酷暑の中、空気の抜けた自転車で向かうのは大変だった。お墓はきれいに掃除されていた。地元の人に慕われていたのだと思った。わずか40年前、アンコールワットに近づくことすら困難だった事実を改めて噛みしめた。誰も成功していないアンコールワットへの入城。それはなんという心躍る甘美な響きを持ったことだろう。ありとあらゆる冒険の中を泳ぎ切った彼の生き様をただすごいと思った。そして何か分からない共感を抱かずにはおれなかった。ようやく僕もシャーデンフロイデから自由になれたと思った。

無謀にも混乱の戦地に飛び込み、生きて還ることがなかった生涯は、現在の解釈を当てはめると軽率という言葉が先に立つ。熱狂に対する憧憬は今の若者にとってむしろ違和感を覚えるだろう。サザエさんと同様に、時代の移り変わりとともに自己に重ねることが難しくなってきているのかもしれない。

遺骨は遺族の元に戻っており、ここに一之瀬泰三は眠っていない。また村の子供たちが寄付をせびり鬱陶しいと言う声も多かったのか、ガイドも勧めなくなったようだ。でもまあいいじゃないか。それを言うならポルポトの墓だって、そこにポルポトは眠っていない。朽ちずに墓として残っているのは、掃除をする人がいるからだ。

26歳の若さでこの地で亡くなった命知らずのカメラマンがかつていた。ときどき誰かが彼に思いを馳せることがあっても良いではないか。