こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア1 蘭州へ

2011年6月19日 

もし高さ200メートルのバンジージャンプがあったとしても飛べる自信はあるけれど、「T52/53硬座」のチケットに手を出す勇気はどうしても出なかった。だがそれは僕だけではないはずだ。

中国における鉄道の座席は、軟臥、硬臥、硬座の3種類に分かれる。軟臥は最高級の寝台車で、一つのコンパートメントに4つのベッドが据えられている。硬臥になると2段ベッドから3段ベッドになり、軟臥と比べてマットレスが硬くなる。そして恐怖の硬座は文字通り椅子である。リクライニングの出来ない対面式の直角の椅子が、3列+2列の計5列で並ぶ。

上海から中国最西部の新疆ウイグル自治区ウルムチまでの移動は、大変な労力を要する。直通列車のT52/53でも42時間かかる。しかもチケット入手は容易でない。出発10日前に切符販売が開始されるのだが、殆ど一般に出回らないからだ。

駅の切符売り場には大きな電光掲示板があって、出発日と行き先別に軟臥・硬臥・硬座ごとの残席数が表示される。数秒で画面が切り替わるので、素早くメモしながらどの列車にするかを考えないといけない。値段と快適性のバランスが一番いいのは硬臥だ。だからT52/53の硬臥があれば一番いいのだが、1席とて余っていることはないから、ウルムチ方面の出来るだけ遠くへ行く列車で、かつ出発日が近いものを選ぶ。ちなみに硬座なら日を選べばなんとか残席がある。だが硬座は、ただ椅子に座ってボーっとしていればいいものではない。
硬座の客層は、出稼ぎ家族が主であって、小旅行に出かけるような人々ではない。従って硬座のワゴンには、生活用品や食料品が山のように積み込まれる。そんな長距離列車に乗り込むのは一種の戦争みたいなものだ。出稼ぎ家族たちは、出発の数時間前にセキュリティチェックを通過して、構内の待合室で我慢強く待機している。そして改札ゲートが開門すると一斉に列車へ猛ダッシュし、自分たちの荷物を置く場所を少しでも多く確保する。こんな列車だから、座席指定というのに安心してモタモタしていると、荷物を置くスペースは1ミリもなくなっているだろう。自分の座席すら人と荷物で塞がれているかもしれない。
中国人と飛行機で乗り合わせると、彼らは例外なく出発のかなり前から搭乗口に並んでいるが、そのメンタリティは列車体験で培われたものだろう。

さてT52/53はそんな中国長距離鉄道の中でも最もタフな路線で知られている。実際に乗った人から聞くところによると、それはなかなか壮絶である。通路や席にはびっしりと荷物が積まれて、トイレに移動することすらままならない。出稼ぎ家族たちは、そんなことに構うことは一切なく、持参した山盛りの食べ物でパーティーを始める。誰かが食べ物やカップ麺をこぼしたとしても、そのまま放置される。そして座り続けることに耐えられなくなった子供たちは、通路の隙間を見つけて寝転がり、ひどい場合はそのまま放尿してしまう。結果、床は尿や食べ物まみれになり臭いが立ち込める。リクライニングは倒せず、身動きが取れない状態が40時間以上続く。
これは武勇伝ではなく、悲惨な経験だという。もちろんご褒美もある。気さくな乗客が四六時中食べ物を与えてくれるので、空腹に悩まされることはまずないらしい。
しかしそのご褒美を足し合わせたとしても、とても僕には乗れる気がしなかった。だから僕は、中間地点の甘粛省蘭州まで硬臥で向かうことにした。硬臥なら28時間横になっていればそれでいい。楽勝だ。

蘭州はわざわざ来る必要のない特徴に欠けた町だと、留学した日本人から聞いていた。しかし駅から降り立って乾いた空気を吸い込んだ時、異国の匂いを僕は強く感じた。