こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

カンボジア4 プノンペン

2011年3月18日

20世紀のカンボジアについてポルポト派、いわゆるクメールルージュを抜きに話をするのは難しい。ポルポト派がカンボジアを支配した1975年から1979年の4年間におよそ200万人が亡くなり、うち半分が虐殺によるものと推定されている。この悲劇を知る上で、チューンエクのキリングフィールド、トゥールスレンのS21は外せない場所である。
チューンエク村までは、自転車だとセントラルマーケットから南西に延びる道をひたすら真っ直ぐ進み、ガソリンスタンドのある二股で左折し5㎞ほど南下すると標識が出てくる。大体45分くらいかかる。
プノンペンの騒がしさから離れた平和な村に仏塔は立っている。透明なアクリル板で囲われた仏塔の中には8000以上の頭蓋骨が収められている。これは近くの集団墓地から発掘されたものだ。夥しい数の頭蓋骨を目の当たりにすると、思わずたじろいでしまう。それでもまだこうして取り上げられた人達はまだましかもしれない。驚くべきことに、1970年代のカンボジアでどれだけの人が犠牲になったかすら、はっきりしていないのだ。

プノンペン市内の南エリアにあるトゥールスレン博物館、通称S21はもともと高校だったのを、クメールルージュが刑務所として使用した場所だ。ここに「反革命的」とみなされた人々が収容され、拷問が行われ、自白を強要され、最終的にはチューンエクに送られた。くくり付けるためのベッド、吊るすための鉄棒、顔を付けて窒息させるための水甕などが残る。壁一面には収容された人たち一人一人の写真で埋め尽くされている。それだけでなく、拷問後の写真も記録していることに身の毛がよだつ。
人は残虐になれるし残虐を好む。残虐な行為に根拠が与えられた時、暴走は始まる。正義はつくづく恐ろしい。
1975年に戻ったとして虐殺を止めることはできただろうか?
彼らの行為を狂信的な集団による蛮行と断罪するのはたやすい。しかし1970年代のカンボジアベトナム軍による侵攻、米軍による絨毯爆撃、飢饉などポルポト以前から悲劇は既に始まっていた。ポルポトプノンペンを掌握する1975年以前にも死者は数十万人を数えたと言われる。
ポルポト派がなぜ受け入れられたのか?それは僕にはわからない。ただ怠惰を戒め贅沢を禁止し、厳格な規律を全ての国民に求めたことの動機は善なるものであったはずだ。極端な理想主義が生まれた背景に、貧困と不平等に対する強い憎しみが根底に存在していたことは疑いようがない。その心を誰が否定できようか?

狂気はいつも正義の名前でやって来る。もし過ちを繰り返さないよう若い世代を教育するならば、「狂気」がいつどのように生まれたかを丁寧に学び、同じような「狂気の芽」が社会に出現した時に気付くことの出来る感受性、おかしいと思った時に「正義」に対して声を上げる勇気を涵養することが必要ではないだろうか?

とまあ、この2か所は何かを感じずにはおれない場所であるし、考える時間が十分ある若いうちに訪問することを強く勧めます。