こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

タイ3 パノムルン

2011年4月3日

国道24号線沿いにあるナンロンは、観光資源を欠く退屈な町だ。そこの質素な250バーツの宿に僕は泊まっていた。この宿の最大の利点はバナナが食べ放題ということだった。それがあまりに美味しいバナナだったので、日本で食べたなら元が取れるくらいに貪っていた。

さてこの町に泊まっている理由は、パノムルン遺跡への拠点としてだ。パノムルン遺跡というのは、山の上の不便なところにある。コラートからの日帰りも検討したのだが、コラート→ナンロン→Ban tako(ここまで東進)→南に丘を登って麓へ→麓から頂上へというなかなか面倒な流れになる。最も安上がりなのは、バスに二時間乗って東のBan takoの分岐まで行って、ソンテウという流しの乗り合い軽トラを捕まえ遺跡の麓まで上がり、そこからシャトルソンテウで遺跡まで行く方法だ。ただ乗り継ぎを考えると時間がものすごくかかる。分岐のBan takoからバイクタクシーを雇うのもありだが、300バーツほどかかるらしい。あるいはナンロンからチャンタブリ行きのソンテウに乗って、少し遺跡に近いBan tapekで降りれば、バイクタクシー代が半額程度に抑えられる。もう選択肢を並べているだけで頭痛がしてきた。ナンロンに泊まり、バイクをレンタルして行くことに決めた。
ナンロンからBan takoを目指して、国道24号線を東に走っていた。片側一車線だが交通量が多い。しかも信号がないので、高速道路並みにみんな飛ばしている。僕は時速80kmで走っていたのだが、車がどんどん追い越していく。自分の車線の追い越し車と反対車線の追い越し車がかち合った時など、もうそれは恐怖である。よくぞ無事故で行けたものだと思う。
Ban takoからの道は快適な山道で、ナンロンを出発してから1時間弱でパノムルンに到着した。ここは標高400mの高台である。遺跡は大きな祭りの最中で、民族衣装で着飾った若い男女が計数百人集結していた。というわけで、遺跡見学はフリーパスだった。
ゲートを抜けて丘を上がると正方形のテラスに出る。ここから本殿へと真っ直ぐ西に参道が延びている。参道の長さは200メートルほどあり、道の両脇にはつぼみをかたどった灯篭が等間隔で並ぶ。そして参道の終点で、十文字のナーガの橋と接続する。ここが俗界と聖域との結界だ。橋から50段の急な石段が続き、この石段を登りきると、いよいよ神殿テラスへと出る。振り返ると、東の空に向かって参道がどこまでも続いているような錯覚に陥る。方角が強く意識された設計である。

本堂は壮大なヒンズー教寺院であり、タイ美術局の手により17年かけて修復された。建物は東西に延びた構造をしており、中央通路は15の扉を挟んで真っ直ぐ両端が繋がっている。楣と塔外壁に施されたレリーフが美しく、中でも有名なのは優美な横たわるナライ神である。1960年代に盗掘されたのち、シカゴ美術館に所蔵されていることが判明。タイでの返還運動を受けて1988年にパノムルンへ戻ることになった。タイは盗掘の加害者であると同時に被害者でもある。盗掘品は元の場所へ返還されるのが原則ということだろう。
パノムルンの近くにムアンタム遺跡というもう一つの寺院があるのだが、ここへ立ち寄る途中、またしても強烈なスコールに見舞われた。ベトナムのミーソン、カンボジアアンコールワットに引き続き、ここタイでもヒンズー教寺院の洗礼を浴びることとなった。僕はシバ神にあまり歓迎されていないようだ。
さてパノムルンに戻ると、まだ人の熱気は衰えていなかった。テントの屋台がずらっと並び、タダで焼きそばとラーメンを食べることができた。入場料もかからないし、夕食もタダで食べられるし、いいことづくめである。その後、ナンロンに戻り、バナナを食べて早い時間に就寝した。だが、僕の目当ては無料の屋台ではない。パノムルンに隠された秘密の設計がベールを脱ぐのが明日なのだ。
翌朝、僕は5時に宿を出てバイクを走らせていた。車は少なく、昨日より道は走りやすい。だが5時45分に到着すると、その時を見ようとする人で既に溢れ返っていた。パノムルンでは4月と9月の年に2回、特別な日を迎える。東から昇った太陽の光が、本堂にある15の扉を貫き西を照らすのだ。大勢の人が神殿の西側に集結し、今か今かと御来光を待ち構えていた。そしていよいよ日の出の時間を迎えた。だが残念ながら東の空は霞み、朝日の光が差し込むことはなかった。
まあ仕方ないかなと思う。4月のタイは乾季を過ぎているので、朝はたいてい曇っているのだ。だからこそ、もし15の扉を貫く御来光を拝むことが出来たら、それは貴重である。誰か、頑張ってチャレンジして下さい。