こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

2011年2月14日 関西空港 メコン編

その日の大阪はとても寒かった。空は一面灰色で、時折小雪が舞う底冷えのする一日だった。
「出発の日としては悪くない」。皮肉を呟きながら僕は街中を歩いていた。
慣れないバックパックでの歩行は想像していたよりも体にこたえる。カバンが肩に食い込む感覚がけだるい気分を覚醒させていた。

バックパックは英語でリュックサックがドイツ語だということは、大人になってから知ったことである。バックパッカーという呼び方はそこから来ているのだが、どうも自分には似つかわしくない気がしてしょうがない。リュックサッカーの方がぴったりじゃないかな、と考えていた。


「中国行きの片道航空券はありますか?」
ある日僕は小さな旅行代理店でこう尋ねた。中国領事館に立ち寄った帰り、たまたま最初に目に入ったのがここだった。流暢な日本語を話す初老の男性が対応してくれた。ベトナムにできるだけ近い中国の南部への航空券がほしいと言った僕にニコニコしながら提示してきたのが広州行きのチケットだった。
広州は馴染みのない土地であったが、どことなく異国の響きに惹かれた僕は彼の勧めに従うことにした。
こうして最初の目的地が決定した。


出発の16時に十分間に合うように11時過ぎには南海電車に乗り込んだ。
空港島へ通じる長い橋を渡っている時間は、日本から出発する通過儀式のように思えて気持ちが昂ぶる。そしていよいよ関空の大きなホールに出ると声を上げそうになる。空港という空間はどこか特別で、人にある種のインスピレーションを与えるように思う。

空港に着いてから一番頭を悩ますのは、どのタイミングで出国審査を行うかだ。あまりに早く出国審査を済ましてしまうと時間をもてあます。かと言ってぎりぎりでは精神衛生上よろしくない。
だから搭乗口前にドトールを作ってほしい。あと本屋もあればなお良い。
それに追加料金を払って荷物検査と出国審査を別レーンで行うスピードパスがあれば理想だ。と思っていたら出入国審査は既に自動化されていた。


Eチケットが導入される以前、航空券は4枚か5枚綴りだったと記憶している。この横長のえらくかさばる航空券をウェストポーチに入れて肌身離さず持ち歩くのが旅行者のスタイルだったが、いまやそんな光景は過去のものとなった。
他人の航空券を盗む人がいるだろうか?とかパスポートとか財布と一緒に入れるから取られるのでは?という議論もまた同時に聞かなくなった。
そしてまた、目的地に着いて最初にすべきことが復路のリコンファームだった。帰国便が変更できないのにどうして再確認が必要なのか?というのが素朴な疑問であったが、知らない間にリコンファームという言葉自体が死語となった。
こういう歴史を振り返ると、常識は日々変化するものだと思う。


閑話休題
昼を過ぎてもなお雪はやむことなく降り続け、大阪では珍しい積雪となった。それに伴いすべての飛行機は遅延されることになった。
どうしてこんな大事な出発の日に、自分は不運に巻き込まれるのだろう?
ベンチに腰掛けて、暗い気持ちに沈んでいた。

することもなく灰色の空を眺めていると色んなことが頭に浮かぶ。勢いで航空券を購入したものの、旅に出ることに対する現実感がまるでない。なんせ初日の宿からして予約していないのだ。理由は、「地球の歩き方」を見ると予想外にホテルが高かったからだ。お金を払うのに抵抗感があった僕は、宿をどうするかという決定を先延ばしにした。
到着時刻が夜になるというのも不安材料だった。出発時刻が遅れれば遅れるほど、現地に着くのが深夜にずれ込む。遅い時間でも空港から市街地へ出ることが可能だろうか?土地勘のない初めての土地に危険はないだろうか?
中国語が出来ない僕が意思疎通できるだろうか?英語が通じない場合の対策はどうしたらよいだろう?宿はどう確保しよう?
こうして具体的に考え出すと、じりじりと焦燥感が心を埋め尽くして、たまらない気分になっていくのだった。


結局、飛行機の出発は1時間遅れの17時になった。
周囲を見渡してみると、殆どの乗客は中国人のようだ。日本人はいないのか、あるいはじっと息を潜めているのかまるで日本語が聞こえてこない。機内はけたたましい中国語が飛び交い、もはや機内は完全に中国だった。僕はぽつんと取り残されていた。機内食の写真は残っているのですべて平らげたと思うが、味がどうだったかは覚えていない。居心地が悪くてひたすら固まっていたことだけが強く脳裏に焼き付いている。

もしもこの飛行機に乗り遅れていたならば、という考えがふと浮かんだ。
しかしもう戻ることはない。
こうして、中国への片道切符から僕の旅が始まった。