こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

ベトナム縦断19 ホイアン

2011年3月4日

明け方、ホイアンに降る雨の音で目が覚めた。聞こえてくる雨音から判断すると、土砂降りと言うほどではなく、ざあざあと地面を跳ねる程度だった。こんな時、僕は窓を開けて空を確認したくなる。それが出来ないだけで、窓のない部屋はストレスだった。仕方なく1階のレストランに移動して、雨の降る路地を漫然と眺めていた。レストランには客が少ない。まだほかの客たちは、酔いが抜けきらず鼾をかいて寝ているのだろう。宵っ張りの朝寝坊。パンとオムレツを平らげ、コーヒーを啜っている間に雨は上がった。彼らが目を覚ます前にもう一度ホイアンの街を歩いてみよう、と思った。
朝早いホイアンは、夜の騒がしさが嘘のように落ち着いている。空気は冷たい湿気を帯びていた。地面の埃は雨できれいに流され、ところどころ水たまりが出来ている。色褪せた黄色い壁は、水に濡れて少し重いにび色を含んでいた。
笠をかぶり天秤棒を担いだおばさんは、前だけを見て自分のペースで歩いている。彼女たちは何十年やってきたことを毎日続けているのだろう。観光客が増えたからと言って、日々の暮らしを休むことはできない。町のはずれのバレ井戸には、カオラオの麺はここの水でこねたものでないといけないと言って水を汲みに来る人が今日もいる。雨水がそのまま井戸に流れ込み、レンガの内壁が苔むしていることについて、外から来た人間がとやかく言うことではない。住人にとって、旅行客が古民家を巡り、ピザを食べてビールを飲んでホテルで寝ることは、自分たちの生活にさしたる影響を与えないからだ。旅行者が寄り付かなくなって困るのは、ホテルの経営者と土産物屋だ。もし旅行者が街へ入るのに一人二千円徴収する案が提案されたら、賛成する住民と反対派はどちらが多いだろうか?この種の問題を多数決で決めるのがポピュリズムと批判されるなら、それはなぜだろうか?
答えが出ないまま宿に戻り着いた。


さてチェックアウトを控えて、僕はちょっと緊張していた。レセプションの女の子が少し苦手だったからだ。チェックインの時、あまり良い思いをしなかった。彼女はすらっと背が高く、長い黒髪の美人だったが、僕が入ってきた時あからさまに嫌な顔をした。たしかに、もともと白かったはずのユニクロのパーカーは風雨に晒され汚く変色していたし、髭も剃らず髪も洗わず濁ったメガネをかけた僕の風貌が、女性に生理的嫌悪感を与えることも自覚していた。そしてその後も良くなかった。当初11ドルのシングルルームにするつもりだと告げたのだが、他のホテルを回っているうちに考えが変わって13ドルのツインルームにすることにした。戻ってきてその変更を告げた時、彼女は露骨に不快感を示した。きっとそう、この人は思ったことがそのまま顔に出てしまう人なのだ。

だからチェックアウトは、絶対に粗相のないようにスムーズに済ませなければならない。ネックは二つあった。一つはランドリー、もう一つは次の行き先だ。ランドリーは34.5kドンだが、宿泊代の26ドルと別で払うとややこしくなる。二重に手間を取らせると、その間に不機嫌になってしまうのは間違いない。ここは迷わずドル払いだ。34.5kドンはドル換算で1.8ドルだが、繰り上げて2ドルになるのを許容しよう。これで合計28ドルになる。お釣りがでないようきっちりと、そして財布からすぐ取り出せるように準備した。

次の行き先が問題なのは、初日にサイゴン行きのバスについて尋ねたからだ。行き方を聞いておいて、ここでチケット手配を依頼していないのは不自然だ。もし「チケットは別の旅行会社に頼みまして」なんてうっかり答えようものなら、理由を詰問された挙句、険悪な雰囲気になるのは目に見えている。ここはしっかり次はダナンに行くこと、そして公共バスで行くことを説明しないといけない。

髭を剃り、髪を整え(と言っても短かったのだが)、眼鏡の汚れを入念にふき取り、鏡で笑顔の練習をした上で、比較的きれいなヒートテック(もちろんユニクロだ)を着て、深くゆっくり息を吐いてから階段を降りて行った。努めて笑顔を崩さぬようにレセプションへ歩み寄り、ハローと挨拶した。今日も彼女だ。そっけなく、「ハイ」と返事をした。緊張が伝わらないようにチェックアウトをお願いします、と告げた。
彼女は部屋番号を確認し、ぶっきらぼうに計算機を叩き始めた。13ドルで2泊だから26ドルねと言ったので、僕はランドリーがあることを指摘した。
「えっと34.5kDね。ドンで払う?ドルで払う?」
「ドルでお願いします」
彼女はまた計算機を叩きながら、少し逡巡したのちに「ドルだと2ドルになるんだけど、、」と言葉を濁した。間髪いれずに笑顔で「2ドルでOKです」と答えた。そして26ドル足す2ドルで28ドルと彼女が計算すると同時に、僕はドル札をカウンターに広げた。彼女は戸惑いを隠せない表情をしたが、数えると間違いなく28ドルであることを確認し、不思議そうに少し笑った。しかしここで気を抜いてはいけない。後半戦が待っているからだ。

お金を引き出しにしまった後、彼女は僕に質問をした。
「どこに行くの?」
予想した通りの展開だ。ここからは話が脱線せぬよう慎重に進めなければいけない。微笑みを崩さず、聞き返しがないようゆっくりはっきり答えた。
「ダナンへ行きます」
「チケットは持っているの?」
「公共のバスステーションに行きます」
「OK。分かったわ」
彼女は納得した。これでやり取りは無事終了だ。
全てが淀みなくシュミレーション通りに進行した。僕は頬を緩めて、心の中でやった、と呟いた。するとそれが伝わったのかどうか、突然彼女はこらえきれずにどっと笑い出した。そしてケラケラと笑ったまま、たどたどしい日本語で「サヨウナラ」と大きく手を振って僕を送り出してくれた。

ホイアンを気持ち良く去ることが出来た。