こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

カンボジア8 バッタンバン

2011年3月21日

カメラが壊れてしまったので、近くの写真屋で最も安い乾電池で動く125ドルのデジカメとインスタントカメラを買った。
もう夕方になっていた。またホワイトローズで夕食だ。安心して食べられる場所だからつい足が向いてしまう。今日は外のテラス席に座ることにした。チキンカレーwith野菜を頼んだ。今日は汗をかいたのでアンコールビールもだ。どっさりの野菜の入った旨いカレーに、冷たいビールの組み合わせ。最高だ。あとはシェークがあれば言うことない。ずらっと吊り下げられた果物を眺めながら、どれにしようか迷っていた。まだ試していないマンゴーもカレーの後の口直しに良さそうだ。

その時、乳児を連れた粗末な格好をした母親が僕の目の前に現れ、物乞いを始めた。もう少しで完璧なディナーになるところを邪魔されたので気分を害された。彼女は何度か金をせがんだが、僕は徹底的に無視した。金を恵むのは本質的解決にならないからだ。教育や就労などの自助努力を妨げるし、赤ん坊を連れた物乞いはしばしば悪い人たちの資金源になるので、金銭を与えること自体が社会の健全化に反するとも言われる

彼女が悲しそうな顔をしてテーブルを去った後、僕は考えていた。カンボジア貧困層が苛烈なまでに貧しいことは厳然たる事実だ。彼らにとって一番大事なのは今日のお粥である。あるいは粥すら贅沢で水を飲むのがやっとかもしれない。善悪はさておき、物乞いだけが彼ら彼女らの命をつなぐ糧だ。食後のシェークを何にしようかと思い巡らせている旅行者が、生きるための粥代10セントを出し惜しみしているのは理不尽な構図に見えるだろう。
貧困層に対する支援は現物給付が好まれる。確かに現金を配れば余ったお金はギャンブルに消えていくのが関の山である。ただそれならば貧者の税金と呼ばれるクジが世界中にあるのはなぜだろう。宝くじの利益が社会福祉に還元されるというレトリックは恐ろしくブラックジョークである。もし貧困層の支援にベーシックインカムが有効であるというランダム化試験の結果が出たとしても、それでも物乞いへ与える10セントは悪だろうか。

そもそも「本質的解決」とはなんだろう?教育水準の向上だろうか?経済発展だろうか?商品作物の奨励に反対する人はいない。だが、それにとどまらず投資がカンボジアの工業化を推進した結果として、廉価な製品をたくさん日本に輸出するようになった時、我々は国内産業の保護を求めて今度は不買運動を展開するのだろうか?

そこまで考えたところで席から立ち上がり会計を済ませた。今夜はシェークはなしだ。そして彼女にいくばくか喜捨を施そうと店の外を探したとき、彼女の姿はどこにも見えなくなっていた。