こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

ベトナム縦断18 ホイアン旧市街

2011年3月3日 

ホイアンのシンボルマークは2万ドン札にも描かれている日本橋だろう。町の東西を繋ぐ、この小さいながらも堅牢な橋は1593年に日本人によって建造されたものである。ホイアンはヨーロッパとアジアを結ぶ中継都市で、16世紀には1000人を超える日本人が住んでいた。彼らは季節風に合わせて日本を出発し、そしてここでしばらく滞在したのち舶来品を積んで風に乗って日本へ戻ったという。
往時の姿を留める街並みはどこか優しい。家屋は中国風の木造、平屋もしくは2階建てで、内部の柱や扉、格子に至るまで緻密な装飾がなされ美しい。贅をつくした調度品でホイアンの栄華を窺い知る。そして特徴的なのは外観が黄色い漆喰で統一されていることだ。黄色の細かい表現は知らないが、この温かみのある少しくすんだ黄色をホイアンイエローと呼ぶことにしよう。しかし写真家は、この黄色を誇張しようとする誘惑に負けてはならない、と個人的には思うのだが。

町の郊外にいくつか日本人墓地が残る。その中で谷弥次郎兵衛の墓は水田に浮かぶように佇み、幅1mにも満たない石畳の小道が墓へとつながっている。石碑には以下のように記されている。
「1647年、日本の貿易商人谷弥次郎兵衛ここに眠る」
「言い伝えによると、江戸幕府の外国貿易禁止令に従って日本に帰国することになったが、彼はホイアンの恋人に会いたくてホイアンに戻ろうとして倒れた。」
しかし東南アジアに住む日本人の帰国が禁止されたのが1635年であるから、彼はホイアンに骨を埋める覚悟で日本に戻らないことを選択したと思われる。祖国の地を踏むことなく没したと聞くと、遣唐使阿倍仲麻呂を彷彿とさせるが、谷弥次郎兵衛はみずからホイアンを選んだ。この暖かく美しいホイアンで、愛する人と余生を過ごすことが出来たのだから、そこに悔いはないだろう。ただ没後400年近く経った今、自分の墓が観光地としてガイドブックに名を連ねていると聞いたら驚くに違いないが。

夜のホイアンは別の顔を持つ。通りは色とりどりの提灯が吊るされ幻想的に照らし出される。昼間は宿でおとなしくしていた旅行者たちが、灯りに誘われるようにわさわさとビールを求めて町へ集まり、ある者は奇声を発しある者は千鳥足でそぞろ歩く、ちょっとした飲み屋街の様相を呈している。僕は、ニュイレストランで333ビール(バーバーバービア)を1杯だけあけて、カオラオ、ホワイトローズ、ココナッツに入ったエビを食べた。200kDとかなり値が張ったが、エビが抜群にうまかった。
自分も少し酔ったせいか、うるさい酔っ払いたちも気にならなくなった。昔のホイアンも似たような光景が繰り広げられていたのだろう。400年前の日本人たちが、今僕が見ている同じ通りの同じ景色のもとで、どんな乱痴気騒ぎをしていたのかと想像すると、なんだか無性にわくわくした。