こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア75 ホタン(和田)

2011年9月7日

バスは朝6時にホタンに到着した。しかし新疆時間を適用すると実質的には4時でまだ暗い。車内が汚く眠れなかったのでホテルで休みたかったが、バスターミナル併設の交通賓館ですら160元と高く、横になるのは諦め広場で座って朝が来るのを待つことにした。この団結広場と名付けられた広場の中心には、毛沢東ウイグル人男性が握手する大きな像が鎮座している。団結という美しい名称が付けられ、融和の像がわざわざ建立されていることは、峻烈な反目が存在することを示唆している。ここホタンは新疆の中でも特に抵抗運動が激しい地域である。カシュガル漢人化が進んだのは1999年に鉄道が開通したからだが、ホタンは2年後(2013年)に控えたホタン線の開通を前に最後の抵抗を試みていた。


タシュケントからアンディジャン、オシュ、カシュガル、ホタンに至るシルクロードを振り返ると、乱暴な言い方をすれば暴動ロードでもある。東西の往来は商いも生めば衝突も発生する。今は東から西に圧倒的な波が進んでいるが、いずれかの時代には反動もきっと起こるだろう。ムスリムに苛烈な仕打ちを行った代償を、未来永劫払わなくて良いというのはご都合主義と言うものだ。

さて8時になると空が白み、人々が広場へ集まり始めた。大ほうきで広場を掃く人、ジョギングをする人、社交ダンスを踊る人、エア社交ダンスをしている人など多種多様な人々がどこからともなく湧いてきて、広場はあっという間に賑やかになった。いかにも中国的な風景だと思う。そのとおり、団結広場の融和の像の前で踊っているのは全員漢人なのだ。なんという皮肉であろうか。


十分空が明るくなったことを確認してバスターミナルに戻った。ウルムチ行は毎時出発しているが、今日出発のものはあらかた売り切れていて、一番早い便が17時発だった。387元とホタン行き95元と比べても高すぎるように思ったが、それだけ距離が長いのかもしれない。

ウイグル人は東方のバザール周辺に固まって住んでいる。ホタンのバザールはカシュガルと比べてもウイグル色が一層濃厚である。羊・鶏の丸焼きが並び、シャシリクのかまどから出る煙が辺り一帯にもくもくと充満し食欲をそそる。そう言えば、この旅でシャシリクを殆ど食べてないことを思い出した。今からでも取り戻そう。食堂に入りシャシリク5本(1本3元)を注文した。やや肉は小ぶりだが、ハラミやレバーも混じり香辛料がよく効いたシャシリクだった。美味しかった。店内はウイグル人でいっぱいで雰囲気は強かった。店の外に出てバザールを歩いた。長いひげを蓄えた男達が拡声器で必死に客を呼び込み、道端では色とりどりのスカーフを被った女性が新鮮で色鮮やかな果物を選りすぐっている。ここはウイグル人ハートランドだと思った。そこには昔から変わらない信仰と情熱の生活が根付いているように見えた。
団結広場と逆に、バザールに漢人が入り込むことは決してない。紛れもない断絶がそこにはある。この事実を覆い隠したまま力でねじ伏せようとすることが唯一の解だろうか。






オシュ以降、移動続きできちんと休めていないせいか、体はしんどかった。しかし次はいよいよウルムチだ。長時間の移動を覚悟し、寝台バスに乗り込んだ。

中央アジア74 カシュガル

2011年9月6日

招待所の硬い板ベッドで寝られるわけがないと思っていたが、知らないうちに眠りに落ちていたようだ。周りの物音で目を覚まし、真っ暗な部屋を手探りで電気スイッチを付けると朝8時になっていた。さて今日はこれからどうするか?

実はカシュガルのことについては殆ど何も調べていない。この招待所も最初に当たっただけで、ほかにどこに安宿があるかも知らない。土地勘のない地で宿探しをする気力はないし、ここで連泊はもっとあり得ない。となるとウルムチを目指して頑張って移動するしかないだろう。バックパックを担いで街に出た。



カシュガルの鉄道駅は街の中心からかなり離れた場所にある。行き方が分からないので、5元のバイタクに乗って行った。鉄道駅はひどい混雑で、駅構内に入るのに30分ほど並ぶ必要があった。駅構内に掲げられた電光掲示板を見上げ、数秒ごとにぱっぱっと切り替わる文字を眺めてウルムチ行きの空席を探す。しかしどうやら、5日後までの席は完全に売り切れているようだ。これはバスについても同様で、ウルムチ行バスが出る国際バスターミナルは押し合いへし合いの状況で、切符売り場にたどり着くことすら困難な状況だった。Uターンラッシュの時期にかち合ってしまったのかもしれない。一瞬カシュガルにしばらく留まるプランが頭に浮かんだが、すぐに打ち消しプランBを考えた。
ウルムチの直行便がないなら経由便を探せばいい。
地図を眺めながらルートを模索してみた。カシュガルからウルムチに向かう最短ルートは、タクラマカン砂漠の北側を走る道だが、このルートのバスはどれも売り切れているだろう。では、タクラマカンを南にぐるっと迂回する南回りルートはどうだろうか?小さな街を目指す人はUターンラッシュと言ってもそれほど多くないだろう。僕は南方方面のバスが出発するカシュガルバスターミナルに赴いた。
一番空いている窓口に並ぶと、ホタンという町行きのチケットを扱うカウンターだった。16時、18時30分、20時発の便があるという。深夜着になるのは困るので一番遅い20時の便にした。95元だった。バックパックを預けて、街へ戻った。


銀行で100ドルを両替し、トイレを兼ねて百富ハンバーガーで休憩を取った。このハンバーガーチェーンはトルファンでも何度かお世話になった新疆発のファーストフードである。種類がやけに豊富で鶏やらBBQだけでなく、何とピザまであるが、総じて味付けがスパイシーなので、平凡なマクドナルドが恋しくなっていた。

中央アジア73 国境を越えカシュガルへ

ユルトを出発し、九十九折の道を登ること30分ほどで標高2,800メートルの国境イルケシュタム峠に到着した。この国境の通過は普通でない幾つかの手順を踏む必要がある。
まず、国境手前からトラックがずらっと100台以上並んでいるので、車を降りて国境ゲートまで歩かなくてはならない。これが第1の関門だ。第2の関門である出国審査自体は中央アジア一簡単だから問題にならない。第3の関門は「緩衝地帯」だ。普通、出国審査と入国審査は同じ場所で行われるが、ここイルケシュタムでは両ゲートの間になんと7kmにも及ぶ緩衝地帯が横たわっているのだ。歩いて国境ゲートに到着した旅行者は、この7kmを移動するために、緩衝地帯内を走るトラックをヒッチハイクしなくてはならない。第4の関門は緩衝地帯の途中にあるキルギス2個目のチェックポストだ。スタンプを押すだけの出国審査と違って、ここではあからさまに賄賂を要求される。トラックドライバーは黙って100ソムを支払うことになっているようだ。一人200円でも100人から徴収すると2万円になり、かける300日で年600万円に上る。それだけでもキルギス人の平均年収の20倍に相当するし、一度このうまみを知ってしまうと元に戻れないだろう。もちろん旅行者は払う必要はない。
このチェックポストから第5の関門である中国側一つ目のチェックポストまでは2㎞あるが、ここは車列が続いているため徒歩移動になる。そしてそこから第6の関門である中国側ゲートまでは徒歩移動は禁止されており、またトラックをヒッチハイクする。このように車を降りたり、ヒッチハイクしたりを繰り返す必要があるのが煩わしい。







しかも中国側ゲートに到着してから最後の落とし穴が待っている。北京時間の14時30分から16時30分(キルギス時間の12時30分から14時30分)まで昼食休憩に入ってしまうのだ。サリタシュを早朝に出発したにも関わらず、ちょうどこのランチ休憩に引っかかってしまったため、2時間近く待たされることになった。それまでこの食堂も売店もないゲートのこちら側で待機しないといけないのだが、そこは下に対策ありの中国だ。鉄扉の向こう(中国側)の食堂から出前を注文できるのである。足止めを食らった人々が、鉄扉のすき間から食べ物や飲み物を受け取り、代金を同じように鉄扉のすき間から支払っていた。いやはやさすが中国と感心した。何から何まで変わった国境通過だった。

中国の入国審査は、荷物を軽く見るだけで終わった。厳しい入国審査に慣れてくると、逆に「これでいいの?」と拍子抜けしそうになる。商店で余った220キルギスソムを中国元に両替し28.6元を得た。ここからカシュガルまで公共交通はなくタクシー一択なので、シェアする人を見つけないといけない。だがなかなか人が集まらないので、キルギス人の青年と二人でタクシーをシェアすることになった。1人80元だから安く交渉してくれたのかなと思う。
道路のコンディションは想定以上に悪い。キルギス側が舗装路だったので、当然中国側もそうだろうと思い込んでいたのだが、非舗装のダートがしばらく続いた。景色は平坦で単調だった。振動でウトウトしていた。ドライバーとキルギス人の青年はずっと喋っている。彼らの言語は中国語でも英語でもなかった。ウイグル語かキルギス語で喋っているのだろう。青年は中国沿岸部に留学するために、漢字を3千字覚えたという。若い国のエリートの情熱には驚嘆すべきものがある。
カシュガルには21時45分に到着した。貨都賓館という招待所に泊まった。シングル40元。窓のない独房のような狭い部屋だったが、僕の手持ちで今夜払えるのはこれが限界だ。荷物を置き外に出て蘭州牛肉麺を食べた。懐かしい懐かしい味がした。この時、初めて蘭州麺を美味しいと思った。

中央アジア72 サリタシュ出発

2011年9月5日

サリタシュの村に着いて、ドライバーはホームステイできる民家まで僕を運んでそこで別れた。ホームステイは1泊200ソム(400円弱)。立派な絨毯も敷かれているし、部屋が汚いという訳ではないのだが、先ほどの出来事が生々しく脳内に焼き付いてなかなか寝付けない。あの時は変なテンションだったから感覚が麻痺していたが、今思うと口封じされている可能性すらあったと想像すると恐怖が襲ってきた。
夜半、頻繁に尿意を催した。ただしトイレは屋内になく、家の外に出る必要がある。村に明かりはなかった。暗闇の中を手探りで歩くと、寝静まった村に生き物の息づかいを感じる。じっと目を凝らすと、たくさんの牛がこちらを見ていることに気が付いた。少し過敏になっているのか、思わずびくっとしてしまった。

6時頃からゆっくりと空が明るくなってきたので、少し村を歩くことにした。朝のサリタシュはおとぎ話に出てきそうな美しい村だった。村を小川が流れ、背の低い平屋の民家がぽつぽつと並ぶ。空気は冷たく、車のフロントガラスが凍っていた。小高い丘に登ってみると、周囲の山々がよく見渡せる。雪を頂いた山々は朝焼けで淡くピンクに色づき、神々しい雰囲気を纏っていた。かたや南西方面の大平原のスケールは圧巻とも言えるほど素晴らしいものだった。車でただ通過するにはあまりにも勿体ない村だと思う。


南方面の道は二股に分かれていて、向かって左側が中国新疆につながるA137で右側がタジクパミールハイウェイに続くM41だ。早朝だと言うのに、大型トラックが列をなしてA137を中国に向けて走っている。そこで僕はカシュガルへの足を確保しないといけないことを思い出し、慌てて宿へ戻りバックパックをピックアップしチェックアウトした。

道の分岐で車を拾うことに決めたものの、オシュに輪をかけて交通量が極端に少なく、30分待って車一台通過しなかった。さっきの車列で大型トラックはあらかた出払ってしまったのかもしれない。じっとしていると体が冷えてきたので中国側へ歩き出すことにした。数キロ歩いたところで何の意味もないが、実利を求めている訳ではない。この広大な大草原を眼下に歩くことそのものが贅沢なのだ。時々後ろを振り返りながらA137を進んだ。道中不意に便意を催し、周囲を見渡し車が来ていないことを確認した上で、道端で用を足した。村の汚いトイレでするよりずっと気持ちがいい。ふと、この村で生まれ生きていたならそれも悪くないなと思った。がんじがらめの価値観から一時的にせよ引き剝がされるのも旅の醍醐味の一つである。
宿を出てから1時間経って、ようやく一台の乗用車が通りがかったのでヒッチハイクした。中国との国境まで行くらしく、快く乗せてくれたのはいいのだが、見るからにポンコツのセダンに、前3人後ろ3人の計6人が既に乗っている。7人目はさすがに少々窮屈だった。
車は30分ほど走りユルトで朝食休憩を取った。ユルトの中には1歳ほどの赤ん坊とその母親がいた。透き通るように肌が白く丸いまなこの乳児を、多くの皺が刻まれ細い目をした母親が抱きかかえているのを見て、暮らしが顔貌にどのような影響を与えるかについて思いを馳せずにはいられなかった。つい先ほどはこの地に生まれていたならば、という願望を抱いていたが、決して楽な道ではないことを思い知らされた。我々は馬乳酒とパンを振る舞われた。胃袋で発酵させた馬乳酒をバケツに移し、そこから桶で一人ずつ丼に注がれる。味は少し酸っぱい。アルコール度数は低そうだが、1杯の量がそれなりにあるので数杯で十分酔いが回る。ドライバーもかなりの量を飲んでいたが、それがここの文化だ。



車のタイヤ交換が必要になったそうで、少し時間ができた。僕はユルトの周囲を散歩した。羊たちは柵の中で落ち着きなくひしめき合い、一方で馬は放し飼いにされ伸び伸びと草を食んでいた。空はどこまでも青く、遥か遠くの山の雪面が光を反射し顔を照らしている。この美しい風景がスポイルされることなく残ることを切に願った。


中央アジア71 オシュからサリタシュ

2011年9月4日

1か月前にオシュからタジクへ向かった際は、あれこれ手を尽くしたが結局車が見つからず、旅行者数人でランクルをチャーターすることになった。今回はサリタシュに移動するだけだからこの手は使えず、乗せてくれる車を自力で手配する必要がある。
まず朝一番でジープスタンドへ赴いた。8人乗りのジープが待機はしていたものの、相乗りする客は一向に現れなかった。やはりオシュから南に向かう人はまれなのだろうか。さすがに、1台3000ソム(=5,000円)を一人で払う訳にもいかず、別の手を検討することにした。
続いてトラックスタンドに足を運んだ。目にしたドライバーに声をかけ、サリタシュに行くか聞いていく。すると、自分はオシュには行かないが、オシュに行くドライバーなら知っているという人が現れた。僕はその人に車まで案内してもらった。生憎ドライバーが不在のため車の前で待つことにした。30分ほどすると、やや機嫌の悪そうな体格の良い中年ドライバーが戻って来た。彼に確認すると、今日サリタシュに向けて出発することと、昼に出発するということだった。値段交渉の結果、400ソム(700円)で手を打つことにした。今日の今日早速足が見つかったことに心から安堵した。

12時に出発すると聞かされたので、市場でピスタチオやジュース、スニッカーズを買い、急いで荷物をまとめてトラックスタンドに戻って来た。だがどこを見渡してもドライバーはいない。しばらく待ったものの現れる気配が全くないので、2時間経ったところで駐車場を離れようとした。するとトラックスタンドの詰所の人が心配してドライバーに電話してくれることになった。彼曰く、ドライバーは出発時間を2時40分に変更したとのこと。そうと最初から分かっていたら、キルギス最後のランチをゆっくり取ることが出来たのにと恨めしく思った。

トラックは「予定」通り2時40分に出発した。しかし給油したり、チョンアライバーザに立ち寄ったり町中をぐるぐる回ったおかげでオシュを出たのは結局夕方4時になった。前回は爆走パジェロで3時間かかった。サリタシュ到着が日没後にならないだろうか、宿を見つけられるだろうか心配だった。


6時半にカフェで食事休憩を取った。たまたま居合わせたというトラックドライバーの仲間は、ドンガバチョのようなでっぷりとした愛想のいいおじさんだった。2人が随分と長く雑談したおかげで出発が遅れた。

オシュとサリタシュの間にはアライ山脈が立ちはだかる。3,615メートルのタルディク峠に差し掛かったところでちょうど日没を迎えた。車を降りて、来し方を振り返った。つづら折りの峠道に蛍のように車のライトがポツポツと浮かび、群青色の空には上弦の月が眩しく輝いている。ここを通過するのは2度目だが、これだけ気分の良い峠とは知らなかった。何でも早く通り過ぎればいいというものではない。

峠を下るとそこがサリタシュだ。しかしいよいよサリタシュが目前というところでドライバーは車を停めた。時刻は21時。車が故障でもしたのか何か問題が発生したのか、ドライバーは車を下りてどこかへ消えていった。10分経ってもドライバーが戻ってこないので、懐中電灯を手に僕も外に出た。辺りは民家も何もない真っ暗なところだった。外の空気は冷たかった。体感温度では10度を下回っていたと思う。すぐそばには例のドンガバチョのトラックが停まっていて、その荷台には枯れ草がこぼれそうなほど満載されていた。僕のドライバーは、ドンガバチョの荷台によじ登り、懐中電灯で枯れ草の中を熱心に探っていた。何か探し物か落とし物だろうと思って、少しでも助けになればと懐中電灯を手渡そうと近付いたところ、ドライバーは僕の存在に気付いて慌てて荷台から飛び降りた。この真っ暗な道端で何をしているのか皆目見当がつかない。
仕方なく僕はまた車内に戻ることにした。ドライバーは一向に戻ってこなかった。何か嫌な予感がして僕は再び車を降りて、ドンガバチョの車に向かった。二人は枯草探りはやめて座席でスイカを食べていた。体が勝手に動いて、気が付くと僕も座席に乗り込んでいた。彼らから目を離すなと直感が告げていたのだ。僕もスイカを分けてもらうことにした。スイカを切る刃渡り40㎝のナイフに一瞬ぎょっとしたが、それでもここにいる方が安全だと思った。この寒い中、男3人が座席に横並びでスイカを黙々と食べているのはなんともシュールな光景だったと思う。それにしても、なぜ出発しないのだろうか?スイカなんてサリタシュについてから食べればいいだろう。だが、サリタシュに行って欲しいと一度だけ僕が言ったのに対して二人が無言を貫いたのを見て、面倒ごとは起こすまいとじっと我慢することにした。何とも言えない沈黙の圧が流れていたのだ。

どれくらい待っただろうか、別のトラック2台が到着した。2人は車を降り、新しく来た2人を交えて4人での話し合いを始めた。何もない暗闇にトラックが集まり、男たちが路傍で相談をしているさまは異様だった。話し合いは長時間に及んだ。終わりそうになかったので、僕は元のトラックに戻り根気強く待つことにした。しばらくしてようやくドライバーが戻って来た。彼は車内に隠してあった大量の札束を取り出し、一人の男に手渡した。それは片手で抱えきれないくらいの大枚だった。
これでやっと一仕事が済んだのかおもむろにエンジンをかけ、ようやく車を走らせた。サリタシュには5分もかからず到着した。時すでに日付が変わろうとしていた。

僕の中でいくつもの疑問が頭に浮かんだ。なぜオシュの出発が4時間ずれ込んだのか?なぜサリタシュまで行かず、数キロ手前の真っ暗な道端で長々と待っていたのか?4人の男達が村を避けて深夜の道端に集った訳は?枯草の中に隠された「荷物」の中身は何か?そして何よりあの大量の札束は何の見返りだろう?
この疑問に対する答えは一つしか考えられなかった。彼らは麻薬の運び屋だったのだ。この時僕は、サリタシュが麻薬ルートのハブであるという噂が真実であることを確信した。


中央アジア70 コーカンドからオシュへ

2011年9月3日

コーカンドの朝は、いつもどおりメロンで迎えた。どんなに食欲がなくてもこのメロンは食べられるし、食べると不思議と快便が約束されているという「薬効」付きである。もう1日ここでとどまり体調を整えようかとも思ったが、1日でも早く中国へ戻ることを優先した。

キルギスへはアンディジャンを経由して入国した。アンディジャンまでは、以前と同様に乗り合いタクシーで行った。アンディジャンの街中から国境までは、距離は近いがタクシーを乗り継ぐ必要があり、やや煩雑だった。
ウズベク入国時の2時間近くかけた徹底した検査から、かなり身構えて出国検査に臨んだのだが、レギや所持金の確認はされずやや拍子抜けした。滞在中の、どんな弾圧を経験したのかというくらいの宿の人々のあの病的なまでの徹底ぶりは何だったのだろう。ともかく特に何も咎められることなく出国を果たした。
キルギス側は、カザフから入った時と同様にここでも素通しで、厳しいウズベクとの対称性が際立つ。街中でカメラを構えるとどこからともなく警官が飛んでくる国から、自由な国にやって来たと思うと自分でも少し気が緩むのが分かった。

宿は同じくホテルアライにした。1時間時計の針を進め、両替を済ませて昼寝をした。部屋からスレイマン山が見える。1か月ぶりにオシュに戻ってきたことが感慨深かった。オシュにはスレイマン山を除いて何もないが、雑然とした雰囲気が心地いい。「I love osh」と言ったナビルの気持ちがわかる気がした。ウズベキスタンと比較すると、同じフェルガナ盆地でも整備のされていないオシュの方がよりオアシス交易都市としての原形を留めているように思う。

台湾の女の子をオシュゲストハウスまで案内したのもここだった。彼女とは不思議な縁で、ホログ、ドゥシャンベに続いて実はヒバでも再会した。ルートの選択肢が限られている中央アジアならではの出来事だが、それでも独立した行動を取る旅行者が5つの都市で出くわすというのはそうそうあるものではない。旅行者の予感というのは当たるものだとつくづく思った。

夕食はいつものカフェでラグマンを食べた。汁無しラグマンを食べるのは1か月以上ぶりになる。ウズベクに入った時はコシのないスープラグマンに物足りなさを覚えていたが、あのボルシチ風の味付けが恋しいと思う自分がいた。だから僕は、ウズベキスタンの食事は日本人に合わないという言説には、どうしても与することができないのだ。

さて、次の目的地はキルギス最南の村サリタシュだ。前回のオシュでの車探しの苦行を思い出しても、この区間の車探しが帰路での一番の難関になるのは間違いない。今日は早めに寝て明日に備えることにした。ただ、違う意味での事件が待っていることをこの時は全く予想していなかった。

中央アジア69 タシュケント出発 中国に向けて フェルガナ盆地へ

2011年9月2日

タシュケントを発ち、中国に戻ることにした。

朝起きるとひどく喉が痛い。今日は出発の日だというのによりによって体調を崩してしまった。タシュケントはだだっ広い。徒歩圏内で用事を済ませられない生活でストレスがかかっていたのかもしれない。大都市での長期滞在は移動の旅とまた違う負担がある。大きな街でゆっくり過ごそうとすると、かえってたいてい体調を崩すのが不思議な性である。

中国ウルムチに向けた帰路の旅が始まる。フェルガナ盆地を横断し、オシュ、カシュガルを経由してウルムチを目指す。今日はまずフェルガナ盆地の町コーカンドまで移動する。
フェルガナ盆地行きのタクシーは、タシュケント駅から5㎞ほど南のコイルックバザール辺りに集まっている。コイルックバザールまでは、運よく安い白タクを捕まえることができ、5kソム(160円)で行くことができた。
さて、乗り合いタクシーで、2週間前に来た道を逆向きに戻る。検問を済まし、峠を超えるとだだっ広い平野が広がる。これがフェルガナ盆地だ。青い湖、乾いた空気、リンゴを売る露店を見ると、都市タシュケントを離れたという実感を強くする。
コーカンドには15時に到着した。ウズベキスタンに入国した時と同じニギナホテルの同じ部屋に30kソムで投宿し、町を歩いた。大通り界隈は再開発がさかんに行われ近代化への道をひた走っているように見えるが、金曜モスクから南のエリアはまだ在りし日の雰囲気を残している。スカーフを被った女性や子供たちが興味深そうにこちらを眺め、曲がりくねった路地の中から不意にモスクや旧家が現れる。
だが僕は街並みではなく、別のものをずっと探していた。それはマスクメロンである。この2週間、フェルガナ盆地のメロンをずっと恋い焦がれていた。ここのメロンは僕の中で別格だ。他のメロンやスイカでは代用できない。旧市街を抜けバザールに早足で向かった。僕は一番ずっしりとした立派なメロンを慎重に選んだ。
ホテルへ戻り早速半分に切って食べた。やや追熟が足りないか。しかしそれでも甘くて瑞々しい。十分満足だ。さて夕食はホテル隣のいつものカフェだ。変わらずパンがおいしい。チキンケバブもおいしい。白湯風の鶏がらスープもおいしい。食事をしながら、タシュケントにいる時より体調が良くなっていることに気が付いた。自分にはフェルガナ盆地の空気が合っているのかもしれない。
店を出ると、西の空にきれいな夕陽が見えた。長かった中央アジアの旅がいよいよ終わろうとしていると考えると、胸が熱くなった。