こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア12 ウルムチ

ハミグワは哈密瓜と表記される新疆原産のラグビーボール型メロンである。この巨大なメロンは、過酷を極める夏の新疆において、貴重な水分補給源となる。新疆にいてハミグワ抜きの生活だと、何かが欠けている感じがして落ち着かない。
ラグビーボールを縦に16等分したものを、うまいと呟きながらかぶりついている時、ふと「昔のハミグワは美味しかった」と言っていたY君の言葉が頭をよぎった。彼がいつだったか、農家が儲け主義に走って水っぽいハミグワを大量生産するようになり、味が落ちたと嘆いていたのを思い出した。

Y君は変わった男だった。ある日突然、ウイグル語の勉強がしたいと言ってウルムチに留学したのだった。当初は短期留学の予定だったのが、1年、2年と延びて結局3年ウルムチに滞在することになった。ウイグル語が堪能になった彼は、日本語を忘れてしまい、夢すらウイグル語で見るようになったという。
このウルムチで3年間暮らしていたことは驚異的だと、僕は思った。まず酷暑をどうやって彼が乗り切っていたのか聞いてみたかった。やはり羅布麻茶をたっぷり摂っていたのだろうか?主食はやはり拌面だったのだろうか?だとすれば、この二つの組み合わせの素晴らしさについて、ゆっくり語り合いたいと思った。彼もきっとまた、同じ食事をしていて、そのおかげで体調が良かったと共感しあえるような気がしたのだ。
そして日照時間の短い厳しい冬を3度も耐え忍んだことは尊敬に値すると思った。寒さに決して強いとは言えない彼が、氷点下20度を下回る夜の辛苦についてあまり語らなかったのは、この地ならではの対処法があったのかもしれない。あるいは、寒さに適応してしまったのだろうか。そこは推測するよりほかなかった。なにしろ僕の知っているウルムチは、ウルムチの限られた場所の点でしかない。例えば、清水寺と抹茶パフェが京都の全てだろうか?旅行者から見えるのは、いつも一面でしかないのだ。そう考えると、ウイグル語を自由に操り、先駆者のいない新疆の地で、生活者として根を下ろしていた彼が偉大な存在に思えた。
最大の疑問は、なぜよりによってウルムチを選んだのか?だった。僕は彼に何度か理由を尋ねたことがある。だがこれに対する彼の答えは決まっていた。彼はいつも「何となく面白そうだったから」と言って、質問をはぐらかした。そしてついぞ、核心的理由に近づくことは出来なかった。
そんな彼がある時、僕にフロッピーディスクを手渡してきたことがあった。フロッピーには、彼が作ったウイグル語の教科書が入っていた。日本には満足の行くウイグル語の教科書がないから、自分で書いたのだと言って、僕に添削を求めたのだった。だがそれは100ページを優に超え、レポートと呼ぶにはあまりにも大作だった。序章の、ウイグル語はアラビア文字で表記されるというところで中断してしまい、今に至っている。

後年、風の便りで彼が亡くなったことを知った時、僕はかなり動揺した。彼の死そのものも勿論ショックだったが、彼が日本とウイグルそして中国の橋渡しをする貴重な人材になるだろうと、信じて疑っていなかったからだ。人生に無駄はないと人は言う。しかし彼のかけがえのない3年間はなんだったのだろうか?死んでしまっては、どうにもならないではないか。彼の3年が役に立たないとするならば、たかが1年程度の浅く薄い旅などに意味があるのだろうか?

旅をしている時、きっとこの瞬間がのちのち糧になると信じて、苦しいことに耐えている自分がいる。だが彼のことを思い浮かべると、どうしても、この信仰が根っこからグラグラしてしまうような不安に襲われてしまうのだ。
旅も人生も同様にその瞬間は一度きりである。もしあと一か月の命だったとしても、旅を続けることに悔いはないのか?こうして自問自答することも、時には必要なのかもしれない。