こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

カンボジア15 プレアビヒア 2011年3月26日

2011年3月26日 

アンロンウェンの夜は涼しくエアコンは全くもって不要であるが、せっかく7ドル余分に払ったのだからということで付けっぱなしにして寝ていた。すると足が冷えて眠れない。布団をかぶって寒さを我慢するのもおかしな話だと気付いて止めることにした。これが日常に潜むサンクコストというやつかと妙に納得してしまった。

夜も明けない5時にタモック湖のほとりを散歩した。朝の空気がピリッと冷たい。この感覚が久しぶりだと思った。空が白み始めると無機質な木々の不気味な屹立が現れた。生命を既に絶たれ、あとは朽ちていく運命の彼らは何を伝えようとしているのだろう。やがて朝焼けで湖がほんのり赤く照らされ、いくばくか命の息吹を湛えるかのように変わっていった。

バイクタクシーのドライバーと朝8時に集合する約束だったが、彼は7時半にはホテルのロビーに現れていた。すぐ準備をして出発した。ラウンドアバウトから東に向けて時速80kmくらいで飛ばす。アンロンウェンから東に向かう道路は新しく、きれいに舗装されているが、風圧と小さなコブの衝撃がキツい。時折道路の継ぎ目に大きめの段差があり、ガツーンとお尻をやられる。しっかり前を見てバランスを取らないと振り落とされそうだ。この行き方は人には勧めにくいなと思う。

さて1時間でスラエムという埃っぽい町に着いた。ここで左にそれる分岐があり北へと進路を変える。これまでの国道を外れるとダートになるが、そんなことはお構いなく飛ばす。途中にゲートがあったが、彼は係の人が制止するのも振り切って、脇からすり抜け突破してしまった。
やがて屏風を立てたようなダンレック山脈を近くに仰ぎ見るようになり、プレアビヒアの麓に到着する。我々をまるで待っていたかのように、一台のバイクが近づいてきて並走を始めた。この軍人とおぼしきおじさんが言うには、今乗っているバイクでは坂を登れないから俺のバイクに乗り換えろということだ。そこでおじさん、兄ちゃん、僕の3ケツで山を上がっていくことになった。ところどころ急坂がありゆっくりゆっくりと上がっていく。ただ道路工事の真っ最中だったので、普通の車でも登れるようになっているかもしれない。

山を上がるとまず目に入るのは積み上げられた土嚢だ。そしてすぐ向こうにはアスファルトで舗装された道路が見える。そう、目の前はもうタイだ。土嚢の手前は焼け焦げた土が広がり、ここがまさしく戦闘のフロントラインだということを強く感じる。土嚢を左手に見ながら坂を上がっていくと、カンボジア国旗と世界遺産のエンブレムの旗に迎えられる。いよいよプレアビヒアの参道入り口である。

石の柱には、いくつか抉られたように欠けた部分があり、彼によると銃撃の痕跡だという。確かに抉られて露出した部分だけ不自然に白く、ごく最近に出来た傷跡だとぱっと見て分かる。更に遺跡の中に入るとテープで囲まれた規制線の中に不発弾が転がっており、あちこちに血のりが見られる。タイはこの戦闘でクラスター爆弾を使用した。世界遺産に対してクラスター爆弾を投下するのは、少しやりすぎではないかと思った。

遺跡内にいるのは殆どが軍人だが民間人や売り子もいる。ドライバーの彼が、遺跡の入場料が5ドル必要で、もう払ってきたと言ってきた。そんな訳がない。入場料を徴収する場所も人もいないからだ。僕が、どこにそんなゲートがあるんだい?と聞くと、彼は「俺を信じないのか?」と言った。それは僕が最も忌み嫌う言葉だった。吐き気を催しそうになった僕は、「君を疑っているよ」と伝え、彼と離れて一人で行動することにした。

遺跡はカンボジアの混乱、ポルポト派残党が砦として利用した歴史などもあり修復が進んでいない。しかし美しいレリーフは見ごたえがある。中でも乳海撹拌はアンコールワットの先駆けともいえるものだ。回廊内部は倒壊した石が積み重なって無残であるが、今後の修復に期待しよう。
プレアビヒア一番の見どころは、南端からパノラマ状に広がるカンボジア平原である。ダンレック山脈はタイ側から見ると緩やかな登りを続け、プレアビヒア南端で崖となってカンボジア側に劇的に切れ落ちる。いわばプレアビヒアはタイというテーブルの角に位置する。だから「岬」と表現されることもある。崖からは遮るものなく、遥か遥か彼方の水平線まで見渡すことが出来る。ただし計算上、600メートルの山から見渡せる地平線の範囲は100km未満なのであるが。空気が澄んでいればアンコールワットの頭はぎりぎり見えるだろうか?

断崖絶壁の先端に立ち遠くを眺めながら、彼の言った俺を信じないのかという科白を思い返していた。私のことを信じないのですか?と言う人を私は信じない。こういうことを平気で言える人はたいてい狡猾だからだ。
信頼の前提は「嘘をつかないこと」と「人を信じること」だ。だからこの二つは道徳教育において対で教えられる。人はできるだけ他人を疑うことをしたくないし、疑いを抱いたとしても口にするのは憚られる。「私を信じないのですか?」は、そこに付け込む卑怯な科白である。事実はどうあれ、人に付け込む事に抵抗感が薄い人は、嘘をつく事にも抵抗感が薄いものだ。自分に利益をもたらすための嘘、不利な状況を脱するための嘘を無意識に口ずさんでいる。まるでそうしなければ損だと言わんばかりに。それに嘘をついていない人が疑念を持たれた場合、普通こう言うだろう。
「お願いですからどうか私を信じてください」と。

そんなことをグルグル考えていると、後ろからガバっと両肩を掴まれ強い力で揺さぶられた。崖から突き落とされる恐怖でビクっとして振り返ると彼だった。
「戻ろう」
彼と参道を歩いた。途中で西洋人の2人組にすれ違った。一人はジャーナリストでもう一人がドライバーだ。ジャーナリスト氏は大きな望遠レンズの付いたカメラでタイ側の建物を熱心に撮影していた。どれだけタイに近いかを示すいい絵になるだろう。ドライバーが僕たちに聞いた。「君たちはこの許可証を持っているかね?」
彼が手にしていたのは、プレアビヒアの許可証だった。彼によると、遺跡の入場料はタダだけど、スラエムの少し北にチェックポストがあり、外国人もカンボジア人も全員登録が必要なんだという。その日の通し番号が記されており、彼の許可証にはNo.4と書かれていた。
あのゲートのことか。僕たちは通り過ぎてしまったんだよと説明すると、そんなはずはない、あそこを通る人間は誰だろうと全員登録が必要なんだと納得いかないふうだったので可笑しかった。でもまあいい。遺跡入場がタダだとはっきり教えてくれたので良かった。バイタクの兄ちゃんを責める気持ちはもうなく、自然とわだかまりが解消された。

参道の入り口まで戻ってきた。ふと見ると、往路に気付かなかった青い看板が目に入ったので足を止めた。看板には英語とクメール語で次のように書かれていた。
「I HAVE PRIDE TO BE BORN AS KHMER」
(私はクメール人として生まれたことに誇りを持っています)
なんという強烈なスローガンであろうか。彼は何も言わず表情一つ変えずにじっとこの看板を見つめていた。何を考えているか僕には読み取れなかった。しかしプレアビヒアは紛れもなくクメール人の聖地なのだ。彼らは何があってもこの地を死守しようとするだろうと確信した。

麓まで戻ってくると彼は、早起きしたから眠いと言ってハンモックで寝てしまった。たしかに顔色があまり良くなかった。そして30分ほど仮眠を取ったあと、今度彼は疲れたから運転を代わってほしいと頼んできた。このままずるずる遅くなるのも嫌なので、僕が運転して彼を後ろに乗せる恰好となった。実は今まで人を乗せてバイクを運転したことはないし、そもそも二輪免許を持っていない。少し緊張した。早く戻りたかったので全開走行を心がける。だがどうしてもカーブや段差でついスロットルを緩めてしまう。時速80kmを維持するよう心掛け、なんとかアンロンウェンまで1時間弱で到着した。
ところで、アンロンウェンの少し手前で警察の検問に引っかかってしまった。たぶん速度違反のネズミ捕りだったと思う。罰金が心配だったが、彼がバイクから降りて警察と30秒ほど話をすると、お咎めなしですんなり通してもらえた。こういうことがまかり通る町なのだ、アンロンウェンは。
宿の駐車場で彼にお金を払うことになった。プレアビヒアの上り下りなど含めて2日で50ドル。高いツアー代だが目的地をすべて回りきることができたので感謝している。昨日ロビーで彼に出会ってなければこうは行かなかっただろう。彼は更にチップを要求してきたが、「僕は君に50ドル払った。これは大きなお金だよ。僕にとっても、君にとっても」と断った。
この後のうんざりするやり取りはここでは割愛する。かれはその後もホテルの部屋まで入って来て延々とチップを要求した。ここでは事前交渉がまったく意味をなさない。交渉事が大好きだと言う人でなければ、シェムリアップからのツアーに参加する方が遥かに気楽に楽しめると思います。
彼はバス会社GSTの社員と自称していたが、検問突破したり、スピード違反もみ消したり、売春を斡旋しようとしてきたりと何でもアリだった。アンロンウェンは、クメールルージュの町という事実を抜きにしても、出来るだけトラブルに巻き込まれないに越したことはなさそうだ。