こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

カンボジア12 アンロンウェンへ

2011年3月25日 

2011年の時点でカンボジアには2つ世界遺産がある。一つは言うまでもなくアンコール遺跡。もう一つがプレアビヒア寺院だ。これは以前からずっと行ってみたかった場所である。場所はカンボジアの北部、タイとの国境に位置する。カンボジア領にも関わらずカンボジア側から訪問することは稀で、殆どの旅行者がタイ側からアクセスする遺跡であった。しかし現在、タイ側からの訪問は不可となっている。この奇妙ないざこざは、国境線上に位置する同寺院の領有権をめぐる争いに起因している。20世紀以降の大まかな経緯を調べてみたところ以下のとおりだった。

1904年:ダンレック山脈の分水嶺に従ってタイ・カンボジアの国境線を画定へ。測量結果に基づきプレアビヒアは南側のカンボジア領(仏領インドシナ)に属することが決められた。
1934年:タイが再検した測量によるとプレアビヒア分水嶺の北側、すなわちタイ側に位置することが判明。しかし国境線の変更は行わず。
1940〜1941年:タイ仏領インドシナ紛争の発生。東京で行われた和平協議によりプレアビヒア含むバッタンバン、シェムリアップの旧シャム王国失地回復が定められた。すなわちプレアビヒアはタイ領となる。
1945年:第二次世界大戦終戦。タイは1941年に獲得した上記領土をフランスに返還。しかしその後もプレアビヒアはタイの実効支配が続く。
1959年:カンボジアプレアビヒアの領有権認定を求めて、ハーグの国際司法裁判所に提訴。
1962年:国際司法裁判所は、プレアビヒアカンボジア領と認定。(周辺地域は未確定のまま)
その後緊張状態は一旦緩和し2000年頃には、特例としてビザなしでタイ側参道からの寺院訪問が行われていた。
2003年:「アンコールワットはタイのもの」発言を受けて、在プノンペンのタイ大使館焼き討ち事件発生。国境閉鎖。
2003年:タイのタクシン首相とカンボジアのフンセン首相がプレアビヒアを共同開発することで合意。再びタイ側からの参詣が可能に。
2008年:プレアビヒアが「カンボジアの」世界遺産として認定されると、領有権争いが再燃。タイ側参道は再び閉鎖。
2011年:プレアビヒア及び周辺地域を巡って武力衝突が発生し、タイ側カンボジア側合わせて30人近い死者を数えた。

つまり2011年時点でのプレアビヒアは、死者を伴う衝突が起こる最悪の状況であったから、行けない可能性も高い。そこで最新の情報を得るため、北部の都市アンロンウェンを目指すことにした。

シェムリアップのバスターミナルに赴いた。アンロンウェンまでのシェアタクシーを探す。僕が到着した時、うまい具合に最後の4人目だったので車はすぐに出発した。しかしそんな余裕のある乗り方が許されるわけもなく、途中で1人、更に2人組が乗り込んできて、このトヨタカムリに計8人が乗り込む事態となった。後部座席に4人というのはまだ分かる。しかし、運転席、助手席にそれぞれ2人ずつ座るのはありえないと思った。運転手がドアの端に押し付けられ片手しか使えない状態で、表情一つ変えずにハンドル操作していたのは神業以外の何物でもない。
アンロンウェンには10時半に着いた。町と言うより商店が並んでいるだけの場所だ。ホテルは、最近に建設されたらしい新しいBot ouddom guesthouseにした。部屋の新しさと清潔さの割に料金は1泊8ドルと安い。ただしエアコンを使う場合は15ドルに跳ね上がる。ホットシャワーはない。この追加料金の理由は電力不足だ。エアコンを作動させる場合、自家発電機を回すことになるのでこれだけ追加料金が必要なのである。どうしようか迷ったが、エアコンなしの部屋が想像しがたかったので15ドル払った。

ホテルのロビーにバイタクの兄ちゃんがたむろしていた。ちょうどいい。プレアビヒアまで行けるかどうか聞いてみよう。ダメと言われたら無理せず明日シェムリアップに引き返す。しかし彼の返事は意外なものだった。
「行ける」
彼ははっきりそう言った。