こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア33 キルギス2010年政変

2010年にキルギスで起こった政変について簡単に振り返る。

キルギスの政治体制は脆弱である。1991年の独立以降、物理学者であったアカエフが大統領を務めてきた。アカエフは、中央アジアでは例外的とも言える言論の自由を一定程度認めていたが、独裁体制でのお決まりとも言える親族による財産の独占は顕著だった。こうした富の偏在に対して国民の不満が高まった結果、2005年に革命が起こり、あっけなくアカエフ政権は倒れた。この政変はチューリップ革命と呼ばれ、ジョージアバラ革命ウクライナオレンジ革命に続くカラー革命の一つとなるものだ。

 

さて、北部出身のアカエフに代わり大統領に就任したのは南部ジャララバード出身のバキエフである。しかしバキエフもまた腐敗政治を展開した。ただ、アカエフの失敗を踏まえ、同じ轍を踏まぬようバキエフ言論の自由を絞り、反対勢力の追放にも余念がなかった。しかしバキエフの時代にキルギスは一層貧しくなり、社会不安は増大した。そこに火をつけたのが、電気料金の突然の値上げである。この大幅な値上げ(2倍)はやむを得ないものであったのだが、国民の怒りは沸点に達した。人々はチューリップ革命の時と同じようにビシュケクへ集結し、201047日に民衆蜂起が発生した。バキエフは民衆に対して容赦なく銃口を向け100人近くを射殺したが、それでも民衆の勢いを止めることは出来なかった。バキエフは命からがらビシュケクを脱出し、故郷ジャララバードへ帰還した。最終的には外国に亡命し、大統領の座を追われたのである。

このように、キルギスは短期間に二度の革命により政権交代が行われたというまれな国である。

しかし、2010年の革命後には更なる悲劇が待っていた。

バキエフが亡命した2か月後の6月、オシュとその周辺においてキルギス人とウズベク人の大規模な衝突が発生し、多数の死者と避難民を生んだのである。公式発表によると死者は893人。だが実際の犠牲者数は2000人を下回らないと考えられている。この乖離の理由は、イスラム教では遺体はできるだけ速やかに埋葬せねばならず、病院の死者数を基に算出した公式発表には、病院に搬送されずに亡くなった方の多くが含まれていないためだ。しかし、死者数と民族分布の再調査が行われる可能性は低いだろう。わざわざ蓋を開ける冒険をする必要性が存在しないからだ。

2010年の政変をもう少し詳しく見ていくことにする。