こふん日記

2011年の旅行記 メコン編、中央アジア編、チベット編

中央アジア15 セメイ(セミパラチンスク) カザフスタン

2011年7月14日

バスが停車したのは、バスターミナルではなく真っ暗な空き地だった。ここがセメイであることを示す標識は何一つない。そして周囲に街の光もない。ただ、乗客全員がバスを降りて、自分たちの荷物を取り出していることから、セメイに着いたことは間違いなさそうだった。問題は、どうやって今日の宿を確保するかだ。僕はカザフスタンの現地通貨を持っていないし、街の中心まで行く足もないのだ。
他の乗客たちには家族が迎えに来ていて、自分たちの車に乗り込んでいく。僕はそれを茫然と眺めていた。そうしているうちに、どんどん人が少なくなっていく。このままだと深夜の空き地に一人取り残されてしまうだろう。僕は一体どうすれば良いのか?
人もまばらになってきた頃、白タクの運転手が声を掛けてきた。見るからに怪しそうな男だった。この男は、いつ到着するか分からないウルムチ発のバスをずっと待っていたのか?到着予定の20時から4時間もの間、ここで粘っていたのか?その時間をどうやって取り戻す気なのか?そう考えると、大いなる疑念は拭えなかった。しかし、他の選択肢は思いつかなかった。僕はこの運転手に付いて行くことにした。正直、嫌な予感がした。街までの代金だけで済むはずがないことは分かり切っていた。ひょっとしたら、身に危険が及ぶかもしれない。しかし、こうするしかないのだ。そう自分に言い聞かせながら、空き地の隅に停められたぼろい車へと近づいて行った。
とぼとぼと空き地を歩き、いよいよ車に乗り込もうとした瞬間だった。突然、誰かが後ろから僕の腕を強い力で掴んだ。振り返ると中年の女性だった。彼女は僕の腕を組んだまま、有無を言わさず、半ば強引に車から引きはがすように僕を後方に連れ出した。そしてしばらく歩いた所で、彼女は振り返り、運転手を指差して「不好(ブーハオ)」と言い放ったのだった。彼女は僕が危うく白タクの餌食となるのを阻止したのだ。やはりこの運転手は危険人物だったのだ。ここで僕は我に返って、冷静な判断を欠いていたことに気が付いた。

彼女は他の家族何人かとこのバスに乗っていて、たくさんの家族が迎えに来ていた。そして彼女は巨大なクマのぬいぐるみの持ち主だった。僕は厚意に甘えて車に乗せてもらうことにした。
15分ほどで到着した彼女の家は、古い5階建て公団住宅の2階の2DKだった。しかし内装はリフォームされてかなりモダンだった。フローリングの床にきれいな絨毯が敷かれていた。僕は靴を脱いで寛ぎながら、部屋を眺めていた。テレビなどの家電が、東芝サムスン、LGの最新型でずらりと揃えられていた。何の仕事をしているのか聞かなかったが、この公団住宅には似つかわしくない富裕層のようだった。
女性の夫は不在だった。上海で働く漢族だという。息子は3人兄弟だ。長男はセメイ法科大学に通い、次男はイスラム教を学ぶためにトルコのイスタンブールに留学している。ちなみに、3男坊は同じバスに乗っていた。バスに乗っていた中年の女性がもう一人いて、それはこの女性の親戚だ。そしてその親戚の娘二人も来ていた。ずいぶんな大所帯がこの2DKの家にひしめいていた。6畳の部屋に子供たちが集まり、大音量で音楽をかけ始めた。そして長男と3男が腕立て伏せ勝負を始めた。回数を数えるのは女の子たちだ。100回行くか行かないかのところで、長男はついに力尽きた。こうして深夜の力比べは3男に軍配が上がった。大音量のせいなのか、あまりバスで眠れなかったからなのか、妙に現実感が乏しかった。
それからしばらくして、別棟の親戚宅に移動し夕食を頂いた。サラダとマントゥだった。サラダはハムとキュウリとグリーンピースサワークリームで和えたもの、マントゥは羊肉の味わいが濃厚な餃子風の食べ物だった。スモモと杏子のジュースも美味しかった。食事後はチャイを淹れてくれ、すっかりお腹いっぱいになった。女性は、「彼女は料理が上手なのよ」と言った。僕もその通りだと思った。
その後、部屋に戻りソファで寝た。時刻は深夜3時だった。